2015年07月30日

今日の新着 2015.07.30(5)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「昭和16年」に追加しました。

昭和16年(1941)
○開戦前夜の日本の北太平洋航路。日本は英国・米国に次ぐ世界第3位の船腹量を維持してきたが、1939年に起こった第二次世界大戦のため、世界に張り巡らされた日本の定期航路はこの年から翌年にかけ次々に閉鎖されていった。1930年代後半の北太平洋航路は、サンフランシスコ航路では浅間丸・秩父丸(1939年1月鎌倉丸と改名)・龍田丸・大洋丸と新鋭船を主体にそれぞれ2週に1便の定期を張り、華やかな客船黄金時代の真っ盛りであった。37年7月の本格的日中戦争の勃発から41年7月の南部仏領インドシナへの進駐にいたり、日本と英米の関係は決定的に悪化、ついに41年7〜8月にかけ北太平洋の架け橋が消えた。龍田丸・氷川丸・大洋丸はこのあと10月、引揚者輸送のため米国に行くが、これは定期航路ではない。また龍田丸が太平洋戦争開戦直前に米国に向け横浜を発った航海は、開戦を隠す偽装航海といわれた。このようにして太平洋戦争開戦の前夜には、北太平洋に活躍したほとんどの日本船は祖国に帰り、開戦準備に入っていた。
(「北太平洋定期客船史」 出版協同社 1994 p195-196 三浦昭男)


昭和16年(1941)
○太平洋横断旅客船の今昔18、引揚帰国者の輸送。第二次世界大戦勃発後も米国は中立を保ち、太平洋横断旅客船も平穏な航海を続けていた。しかし1941(昭和16)年7月ともなると、浅間丸がマニラから蘭領インド・バダビアに差し立てられ、当時抑留されていた独乙人婦女子および独乙外交官等6百余名を搭載、上海・長崎・神戸へ輸送したのをはじめとして、引揚帰国者の輸送が相次いだ。9月から11月にかけ、北米方面へは龍田丸・氷川丸・大洋丸が、内地引揚邦人輸送のために配船された。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p21 高久虔一)


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今日の新着 2015.07.30(4)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「昭和7年」に追加しました。

昭和7年(1932)
○遠征の日を前に朗らかに多忙な女流選手たち、昨夜は洋食のたべ方練習の陽気な晩餐会
(「東京朝日新聞 16582」 1932.6.26日刊 p11)


昭和7年(1932)
○選手歓送第二回オリムピツク列車、横浜埠頭で大演奏会並に大合唱。オリンピック派遣選手の、各選手および体育協会本部役員ら104名は新興日本の堂々たる陣容を整えて、30日(木)午後3時横浜出帆の大洋丸で晴れの首途につきます。本社は遠征選手の健闘を激励し、その勝利を祈るため前回同様横浜臨港特別列車第二回オリムピツク列車を仕立て横浜港に栄ある選手の鹿島立ちを見送り、埠頭において府立第一商業生徒のバンドによる本社のオリンピック応援歌の大演奏及び来会者の大合唱を捧げて代表選手を歓送致します。左の規定により一般読者諸君の参加を希望致します。(往)午後零時10分東京駅発、同零時54分横浜港着(途中無停車)、(復)午後3時43分横浜港発、同4時27分東京駅着(品川駅停車)。参加申込は本社受付にて450名に限り往復特別乗車券(整理のため1枚30銭)を発行致します。主催東京朝日新聞社
(「東京朝日新聞 16582」 1932.6.26日刊 p11)


昭和7年(1932)
○オリムピツク第二陣愈々あす船出、各送別会をのぞく
(「東京朝日新聞 16585」 1932.6.29日刊 p7)


昭和7年(1932)
 集合写真。六月三十日横浜を解纜した大洋丸船上に於ける日本チーム(男子陸上競技及男子競泳を除く)。
(「第十回オリンピツク大寫眞帖」 帝国公民教育協会 1932 ノンブル不明)


昭和7年(1932)
○海洋丸便り、勝つまではお菓子廃止、女子選手の意気込み
(「東京朝日新聞 16595」 1932.7.9日刊 ノンブル不明)

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今日の新着 2015.07.30(3)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「大正15年」に追加しました。

大正15年(1926)
○客船隊、日本郵船へ移る。第一次世界大戦後の海運界は世界経済の不況を受けて不振を続けていた。日本郵船や大阪商船などは大型船を引き揚げて打撃を避けたが、多くの航路を持たない東洋汽船は老朽船に鞭打って対抗せざるを得なかった。新船を建造しようにも安田善次郎の突然の死で東洋汽船は資金源を断たれていた。安田の死後に保善社専務理事となった結城豊太郎は、安田銀行の近代化・組織化を最優先させ、海運業への新規融資どころか、滞貸の速やかな回収を計画した。このため東洋汽船では安田銀借入金の肩代わりを第一銀行に依頼する案さえ検討された(杉山和雄『海運業と金融』海事産業研究所編による)。政府は多年巨費を投じてきた桑港線を破棄するのは体面上忍びないとの見解で、海運界の反対論にもかかわらず当線の補助を決定した。ただ、東洋汽船の実情では路線の維持が困難とみられ、日本郵船との合併案に活路を見出した。郵船は、東洋汽船の陸上財産と貨物船を除き、桑港線・南米線の営業権と使用船8隻、委託船大洋丸とその使用権を譲り受けることになった。大正15年2月16日、浅野社長と郵船の白仁社長との間で合併準備契約書の調印が行われ、3月10日合併が終了した。ここに、明治31年竣工の日本丸により開始された東洋汽船の客船サービスは、28年目にしてピリオドを打った。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p83-4)

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今日の新着 2015.07.30(2)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「大正12〜14年」に追加しました。

大正12年(1923)
○関東大震災時の救助活動と被害。1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災で横浜市内の諸官庁が焼け、通信機関が麻痺したため、横浜港に停泊している船舶の無線電信機を用いて災害地外へ電信を打った。これらの情報は対米通信用に設けられた磐城無線電信局へ送られ、局長が直ちに英訳してホノルルやサンフランシスコへ送信され、大震災のニュースが世界に伝わった。救助活動には大洋丸なども活躍し、「海運興国史」によればこの救助活動にあたった邦船は96隻ともいわれている。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p82)
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今日の新着 2015.07.30(1)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「大正10年」に追加しました。

大正10年(1921)
○太平洋横断旅客船の今昔7、香港桑港航路開設。同航路開設10年後の1908(明治41)年には天洋丸13402総トン、地洋丸13426総トンを、また1911(明治44)年には三菱長崎造船所で建造された春洋丸13377総トンを、1916(大正5)年には太平洋郵船会社より買収したコレア丸11810総トン、サイベリヤ丸11790総トンほか1隻を、さらに1921(大正10)年には独乙よりの賠償船大洋丸14458総トンを加え、大いに名声を博した。けれども北太平洋航路は決して日本船の独擅場ではなく、日本郵船会社も東洋汽船会社も共に、米国船、英国船に対して受太刀の状態であった。そこで日本郵船は政府に対し、快速優秀船の建造の急務なことについて長文の建議書を提出した。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p16 高久虔一)


大正10年(1921)
○大洋丸の委託運航。旧ドイツ客船であったカップ・フィニステル(CAP FINISTERRE)は第一次世界大戦の賠償船として日本が取得したが、本船を回航してきた日本郵船は本船は喫水が浅く、トップヘビーであることを理由に運航を辞退してしまった。これには逓信大臣野村卯太郎も困ってしまい、病院船にしようとか、あるいは横浜の桟橋に繋船して海上ホテルにしようとか案が出たが、結局は時の総理大臣高橋是清らが浅野に依頼し、東洋汽船が大蔵省より運航を委託されることとなり、1921(大正10)年3月、横浜で受け取り直ちに三菱長崎造船所にて約30万円をかけて修理、改造して大洋丸と改名した。本船はボートデッキに大きな石でできたプールを有し、食堂も天井がかなり高かった。このトップヘビーの一因となる部分を改修することとなりまず取り扱いが困難なアンチローリングタンクをサイドタンクに交換したり、船底のバラストを追加した。また積み付けには重量物を下艙に積みトップヘビーを防止するように配慮することとした。修理が完了した大洋丸は大正10年5月14日、香港に向けて長崎を出帆した。浅野は本船が世上噂される危険な船ではないことを世間に知らせるために自ら同船に乗って香港に行くことにした。船長はベテラン東郷正作であった。東郷は大正4年アーネスト・ベントに代わって天洋丸の船長となりサンフランシスコ航路では初の日本人船長となった人である。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p80-81)


大正10年(1921)
 浅野が本船について感慨深いこと、それはおそらくこの披露航海に安田銀行の頭取である安田善次郎が同行したことだろう。安田は単に浅野の、そして東洋汽船のパトロン的存在である以上に浅野とは懇意な間柄だった。コレア・クラス購入時の立替をしたり、セメント事業拡張には先に立って同意し、第一次世界大戦の好景気で大量建造した船の材料代価の社債を引き受けたのもみなこの安田であった。それだけに安田が大正10年9月28日に大磯の別荘で凶刃に倒れたことは東洋汽船のみならず大きな損失であった。安田銀行側から後に、東洋汽船の借金返済を迫られた浅野は「それやァ話がちがう。わしは故善次郎さんから二億円までは融通するとの遺言を受けている。いままで借りた金は一億円ばかりだからまだ半分は残っている筈だ」とうそぶいた。浅野の人となりがうかがえる。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p81)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着案内 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする