2015年09月27日

今日の新着 2015.09.27

みなさん、おはようございます。
新しい記事を「昭和16年(1941)」に4本追加しました。

昭和16年(1941)
○昭和16年7月、当時第三艦隊参謀であった私は、東京転任を命じられた。開戦近い切迫した時期の陸上(人事局)勤務は不満だったが、9月下旬に軍令部第一部の立花少佐に呼ばれ、ハワイ軍港のスパイを命じられた。すでに日米両国は通商閉鎖状態で船の往来がなかったが、日本郵船の大洋丸が在日米国人の帰国のためハワイに向かう予定で、私はこの船に郵船本社の派遣事務員に化けて乗り込むことになった。また潜水艦の専門家である前島中佐が船医に化けて乗った。私たちの身分を知っていたのは、船長、事務長に船医、その他二三名の高級船員だけだった。船は10月20日午後横浜を出港。米本国に帰る数百名のアメリカ人たちが家族と共に乗っていた。進路を北にとって択捉島近くまで北上、それから東に向かったが、これは船長に対して海軍側から要請された航路で、後で思えばハワイ空襲部隊の航路にあたる。風向、気圧、船の動揺、給油予定地点を調べた。船が東進しアリューシャン群島とミッドウェー島とを結ぶ線の中間を過ぎ、東経165度あたりから南に下ってハワイ島を目指す頃になると、海は凪いできた。当時は米ソの輸送船がこの航路の近くを通っていると思われていたのに、航行中に一隻の船にも遭遇しないことは私を喜ばせた。これなら我が機動部隊は隠密のうちにハワイに肉薄できる。10月末の北洋は寒かった。今度の航海はやけに北を通るものだと船員たちも不思議そうに語っていた。曇天ながら14mの風が吹き、15000トンの大洋丸が10度も傾くほどだった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p24-25 鈴木英)


昭和16年(1941)
○11月1日未明、大洋丸はオアフ島の北方、約200マイルで米軍の哨戒機につかまった。哨戒機は頭上を旋回して南に去った。船が100マイル地点まで近接すると、米軍機が編隊を組んで近づき、大洋丸を目標に急降下し擬襲をおこなった。私は船橋から米軍の演習ぶりを眺め、なかなか上手だぞと思った。米軍の防禦戦法を「200マイルが哨戒線、100マイルで攻撃か」と判定しながら、私は敵の演習ぶりを視察し続けた。日本海軍の航空専門家が乗っているとも知らず、手の内を見せてくれるわい。それにしても一体日米は戦うであろうか。警戒は想像以上に厳重で、ホノルル港外で士官以下10名の米海兵が乗り込んできた。彼らのうち誰一人神経を尖らせている者はいなかった。ホノルルの港内を目指し微速で進んでいる大洋丸を、古い型の日本商船と軽視したのだろう。飛行機の哨戒ぶり・それに伴う編隊の擬襲・先ほど見た防潜網は、非常に厳しい警戒を始めていることを示すが、話しぶりではまだ一般の兵士にまでは及んでいないようだと思った。米側は大洋丸を桟橋の一番外側、つまり真珠湾に一番近いところに接岸させた。何という幸運、真珠湾が丸見えだ。船橋に立てば真珠湾を出入りする米艦艇が手に取るように見え、ロージャース、ヒッカム両飛行場、フォード島も指呼の間だった。大洋丸が古い大型船でデッキが高いのも、万事に都合がよかった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p25-26 鈴木英)


昭和16年(1941)
○こんなよい桟橋に大洋丸をつけたのは無気味であった。大洋丸の真横にイギリス駆逐艦が碇をおろしており、これで我々を監視するのかと前島中佐と私は語り合った。陸へ上がった船員には尾行がつくということで陸上での連絡は不可能に思え、一切の情報収集は船内でやることにした。船長室と弦門に直通電話を引いて高級船員に弦門を監視させるなど、盗聴防止にも十分注意した。これだけの準備をしてからホノルル領事館北(ママ)総領事に私の身分を打ち明けた。領事館からは在留日本人の引揚げ乗船の手続きで、頻繁に大洋丸に連絡が来る。その都度、領事館員を船長室に招いて、私は真珠湾軍港の情報を聞いた。話を聞いては船橋に行き、直接に目で確かめる。2日になって、日本潜水艦が真珠湾口に現れたと新聞に報道された。警戒が厳しくなりかねないので、ここで一切書き物を残さない方針を決めた。ところが領事館員は軍事専門家ではないので、すべてを記憶するというわけにはいかない。領事館から船に毎朝新聞が届いたが、この中にメモが挟んであった。米国税関の検査は、当方が積極的に新聞の端をパラパラと見せるとすぐOKになった。紙片に書かれた米艦艇の入港日時・隻数などは片端から記憶し、紙片は焼き捨てた。日本海軍が張っていた情報網からも領事館に情報が集まっていた。10月21日(大洋丸入港10日前)撮影の真珠湾の空中写真も届いた。末端のスパイと一切接触はせず、船の上で情報を総合することに努めた。大洋丸の甲板を歩きながら、私は丸見えの真珠湾を見直した。戦艦8・空母3・甲巡11など、私の推算は正確で、戦後に米国側で大きな問題になったほどだった。私は大洋丸の船上でこの数字を出すと、何度も何度も検討を繰り返した。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p26-27 鈴木英)


昭和16年(1941)
○ホノルル出港は4日午後の予定だったが、私は船長に明日5日の真珠湾が見たいと頼んだ。船長は理由を聞かず引き受けてくれた。積み荷作業が意識的に遅らされたが、荷役が1日くらい遅れて出航が延びるのは商船では珍しいことでもないらしく、米国側もそれほど注意を払わなかった。5日(日)早朝、私はとび起きると船橋から真珠湾を眺めた。わざわざ出港を延期させて日曜朝の真珠湾を見た理由は、真珠湾奇襲は「やるなら日曜」とすでに計画があったからだ。週末で泊地に帰投した軍艦はフォード島の周辺に思い思いに碇をおろし、軍港は全く静かな休養の朝を迎えていた。これでよし、彼らは日曜は確実に休んでいる。大洋丸は5日夕刻、ホノルルの桟橋を離れた。次第に船足を速めて、オアフ島の姿が遠くなるにつれ、私は大声を上げて喜びたい衝動をどうすることも出来なかった。公海上での米軍艦臨検を警戒して、私は重要なメモを残さなかった。書類のまま持ち帰るものはコヨリによって紐として使い、それも燃やしやすい場所に置いて万が一に備える慎重さだった。帰路は往路より南を走ったが、これも後に機動部隊の帰路となった航路である。大洋丸にはハワイを捨てて故国に帰る日本人一世二世が多数乗っていた。彼らの中には飛行場の格納庫建築に働いた者が多く、この人々から格納庫の屋根の構造なども詳細に聞くことができた。心配した米軍艦の臨検もなく無事11月17日に横浜に帰着、着慣れた事務員服を軍服に着替え、直ちに大本営に報告した。12月8日未明、淵田中佐の発した「奇襲成功」の無電、引き続いて続々と東京に報告されてきた真珠湾軍港壊滅の勝報を、私は海軍省で素知らぬ顔で聞いていた。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p27-28 鈴木英)


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2015年09月23日

今日の新着 2015.09.23

みなさん、こんにちは。
新しい記事を「昭和17年(1942)」「昭和18〜20年(1943〜1945)」に1本ずつ追加しました。

昭和17年(1942)
○5月8日は大詔奉戴日で、船では早い夕食の膳におかしら付きで酒が1本ずつ出された。ちょうど食事が終わったとき、サロンのブザーが不気味な音をたて、「敵襲」と叫ぶ声がスピーカーから飛び出した。私は遠くでドーン、ドーンという、腹にこたえるような2発の爆発音を聞いた。咄嗟に敵潜水艦が出たなと思った。急いで船室に戻り、救命胴衣を着けて上甲板にかけあがってみると、九州の山々と五島列島の島影が5月の夕映えの空をバックにはっきりと見え、はるか水平線上に赤々と燃えて炎を吹きあげている大洋丸の姿を見た。デッキの手すりにつかまって船尾を見た。約100mの距離で難を免れたのであった。大洋丸は停船しているらしく、天をこがす炎が次第に近く見えてきた。18000トンの巨船には、シンガポールに向かう3000人ほどの軍関係者が乗っている。軍需物資も積んでいるはずである。吉野丸はジグザグコースで南に向かっていた。大洋丸の燃える火柱が、爆発音とともに一段と大きくなるのを見た。夜の闇が迫り、五島列島沖の暗い海面にただ一つポツリと光る大洋丸の燃える姿が、船尾の遠くにいつまでも見えていた。家に残してきた妻や母や子供は、もし明朝の新聞に「大洋丸沈没」のニュースが出たら、仏壇に燈明をつけて私の写真を飾ると思った。数日後に台湾の高雄に着くと、上陸する人に頼んで、無事航海をつづけていると家族にハガキで知らせた。大洋丸のことは検閲を考え、1行も書かなかった。そして、日本の領海内に敵の潜水艦が現れ襲撃されるようになったこれからの厳しい戦局を思わずにはいられなかった。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p不明 藤波健彰)


昭和18年(1943)
○昭和18年の暮れ近く、撮影済みのフィルムを持って、私は内地に帰った。南方ボケの私の頭と皮膚は、内地のきびしい冬の寒さに悲鳴をあげた。2年ぶりの対面で、家内が口にした最初のことばは、内地出発直後、五島列島沖で起こった大洋丸撃沈事件のことであった。家内は私が大洋丸に私が乗り込んでいるものと思い込んでいたので、「詳報がくるまで仏壇にあなたの写真を飾り、毎日朝夕お経をあげていましたよ。顔を見るまでは本当に後家さんになったのじゃないかと思っていました」といった。戦時下の家庭に、こんな話はどこにでもあったことだろう。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p252 藤波健彰)


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2015年09月21日

今日の新着 2015.09.21

みなさん、こんにちは。
新しい記事を「昭和17年(1942)」に追加しました。

昭和17年(1942)
 明44.8建造。大8第一次大戦の賠償船として日本政府が取得。大10.1大洋丸と改名、東洋汽船に運航委託。大15.5N.Y.K.に運行委託。昭4.5.4N.Y.K.に払い下げ。昭17.5.8六連からルソン島リンガエンに向け航行中、長崎県男女群島の南南西85浬(30.45N、127.40E)で米潜グレナディアGrenadier(SS-210)の雷撃を受け沈没。
(「日本郵船船舶100年史」<世界の艦船・別冊> 海人社 1984 p223 木津重俊)

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2015年09月20日

今日の新着 2015.09.20

みなさん、こんにちは。
新しい記事を「昭和18〜20年(1943〜1945)」に追加しました。

昭和18年(1943)
○大洋丸を沈めた米潜水艦のその後。マレー半島西岸のペナンには第一南遣艦隊の第九根拠地隊があった。1943年4月20日午前10:30、ペナンに派遣されていた第九三六航空隊の艦攻1機が、プーケット島沖で浮上潜水艦1隻を発見。米潜水艦「グレナディア」であった。同艦は1941年に就役したタムボー級(1475基準トン/水上)の一艦。オーストラリアのフリマントルから出撃し、これが6回目のパトロールだった。4月20日夜、ペナン北西のレムボワラン海峡で2〜3隻の船団を発見した同艦は、これを追跡中に見失い、再度発見した船団を襲撃準備中に、日本機の攻撃を受けた。同艦は直ちに潜航したが、深度35m付近で対潜弾が命中炸裂、機関コントロールルームと後部発射管室の間に命中。船体後部とハッチは破壊されて浸水、動力を失ったが、浮上して低速航行が可能なよう修理した。4月21日午前03:20、船団2隻護送中の特設砲艦がグレナディアを発見したが見失った。翌朝09:05、第九三六航空隊の一機がグレナディアを再発見。九七艦攻の爆撃を受けた同艦は機銃で反撃したが、09:30特設捕獲網艦長江丸が駆けつけて砲撃を開始するに至り、艦長フィッツジェラルド少佐は艦の放棄を決意、白旗を揚げて降伏した。10:00船体が沈みはじめ、乗員は海上から救助され、士官8名、下士官兵30名が捕虜となった。戦後帰還したのは艦長以下6名と言われている。なお「グレナディア」の戦果は、1942年5月8日に日本郵船の大洋丸を沈めたのが唯一であった。
(「敵潜水艦攻撃」 朝日ソノラマ 1989 p63-65 木俣滋郎)
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