○大正3年夏の夜、早稲田の大隈邸で臨時閣議があった。そこで加藤高明外務大臣から、中国膠州湾にいるドイツの軍艦を日本海軍で追っ払ってくれというイギリスに対しどう返事するか相談があった。三国干渉でひどい目にあった日本を助けてくれたイギリスに酬いるよい機会で、イギリスを助けることにみなは賛成な様子。しかし大蔵大臣の私若槻礼次郎は、おいそれと賛成できない。大蔵大臣は戦費を調達しなければならない。先のことを考えると非常に苦しい。閣議は夜の12時に及んだ。しかし戦局が拡大してもドイツが日本まで攻めてきて日本が屈服することはあり得ない。そう莫大な戦費を要することはないということになって、私も最後には同意した。
(「古風庵回顧録」 読売新聞社 1975 p213-214 若槻礼次郎)
大正8年(1919)
○5月20日、郵船の諏訪丸で山本五十六は米国ボストン駐在のため横浜を出発した。米国国情研究のためであった。船内で演芸会があったが、日本人で誰も出場者がいない。するとこれにたまりかねてか、一人の颯爽とした日本青年が、現れたと見る間に、サロンの手摺りにアッと言う間もなく、誠に見事なフォームで逆立ちをした。拍手がわき起こった。次ぎに青年は大きな皿2枚をボーイから借りて両手に一枚宛載せ、前後左右上下に水車の如くに、振り回し、ついには両手に皿を載せたまま宙返りを何回も行ったのである。この青年こそ山本五十六少佐であった。大正10年5月5日、山本に帰国命令が下り、7月19日横浜着の大洋丸で帰朝し、直ちに北上の副長に補せられ、支那方面で活躍、12月1日、海軍大学校教官を命ぜられたのであった。
(「人間山本五十六」 光和堂 1964 p239 反町栄一)
大正9年(1920)
賠償物件として船舶を取得するは平和条約第8編の規定する所にして、本邦も連合国の一員として当然これに参加するの権利を得、大正9年、カップフィニステレ(大洋丸)・クライスト(吉野丸)・ウェーゼル・メクレンブルヒ・ノルマニア(日高丸)・ビーレフェルト(光文丸)・大正10年に於いてウィトラム、合計7隻を取得した。
(「明治大正財政史 20」 財政経済学会 1939 p144)
大正9年(1920)
○11月9日、クライスト(Kleist)引渡完了、日本郵船の手によりて回航し、11月28日リヴァプール出発、大正10年1月23日横浜に到着せしが、到着後引き続き同会社に管理を委託することとし2月24日これが契約を締結したり。契約の条件は殆ど大洋丸と同様にして、その使用料は重量頓1頓につき1箇月金30銭を納付するもののとし、同会社においては本船を郵便定期航路横浜倫敦代船または逓信省命令航路横浜メルボルン線使用船代船として使用したり。しかして本船の船名は同会社の負担にて大正10年12月13日これを吉野丸と改称したり。
(「明治大正財政史 20」 財政経済学会 1939 p146)
大正9年(1920)
○11月10日、カップフィニステレ(Cap Finisterre)(大洋丸)引渡終了、日本郵船の手により回航し、12月18日リヴァプール出発、大正10年1月30日横浜到着、2月13日回航手続終了の上3月12日本船の管理を東洋汽船に委託を締結せり。
(「明治大正財政史20」 財政経済学会 1939 p145)
大正9年(1920)
○12月初旬、第1回賠償船の貨物船アレンスギルは、英国西南端ヘレザノンス港付近において座礁したので、日本政府はこれの賠償問題についても交渉を進めている。
(「東京朝日新聞 12426」1921.1.16 p3)