2015年03月17日

大正10年(1921)

大正10年(1921)
○1月13日、我国へ分譲の元独逸汽船4隻中のクライスト号は、愈々上海発今明日中神戸着の予定であるが同船は総噸数8959噸、船長463呎3、幅57呎7、吃水35呎8という新式ソール船で、郵船香取丸と略同船である.取扱者郵船会社では、直にこれを、欧州航路の丹波丸にかえて定航につかせる予定。その来月中旬の初航には丹汝丸申込船客などで大満員の盛況だという.また第2船として目下来航中のカップフイニステレ号は現今我国最優良客船たる春洋丸を凌駕する巨船で総噸数14153噸、船長540呎、幅60呎53、吃水31呎2、1等汽船客実に404人、2等100人、特別2等I12人、合計616人を乗船できる。今月下旬か来月上旬同船が上海より横浜着の上、諏訪丸、伏見丸の両船と共に米航路に就く。
(「東京朝日新聞 12426」 1921.1.16 p5)

大正10年(1921)
○1月20日、我政府の取得独逸船中第1回航船クレイスト号上海より神戸経由横浜港に投錨予定の旨航主日本郵船会社に入電。なお第2回航船即ち我国第1の大型客船キヤプフイニステーレ号(総噸数14103噸速力16哩半、独逸南米定期船)は次に今17日英領海峡植民地新嘉波発、香港を経て直行、来たる27日横浜港に投錨の予定との旨入電した。
(「東京朝日新聞 12427」 1921.1.17 p5) 

大正10年(1921)
○1月27日、天洋丸以上の大客船カプフイニステレ号は、昨日午後7時香港から横浜第10号岸壁に到着した。同船は公式に逓信省より日本郵船へ帰属することに決定された。次に23日同港着の第1船クライスト号は、2月18日丹波丸代船として船長柴田信蔵氏、機関長小町谷栄作氏、事務長荒木忠次郎氏、川上公使一行を乗せて横浜港に着いた。
(「東京朝日新聞 12441」 1921.1.31 p5)

大正10年(1921)
○キャプフィニステレの運航を郵船会社は御免蒙るという。逓信大臣の野田卯太郎が淺野総一郎に「お前一つやってみてくれ」という。淺野は直ぐ横浜へ行って、機関室へ入った。シリンダーは非常に力が強い。パイプも強い蒸気が必要な時の余裕がある。独逸人なら分かるところを、船長が米人だった。翌日淺野は東洋汽船の船長と行き、バラスを入替え、水を抜いたら、傾いた船が平らになった。
(「父の抱負」 浅野文庫 1931 p42-47)

大正10年(1921)
○2月、クライスト(8959トン、1906年建造、NDL大西洋定期船)と、カップ・フイニステーレ(1万4503トン、1911年建造、ハンブルグ=サウス・アメリカ・ラインの南米定期船)のうち、日本郵船はクライストの使用は引受けが、カップ・フイニステーレは辞退した。本船が南米は、ラブラタ河の浅い喫水線用に造られた船で、運航上の問題があるとの理由だった。これには時の高橋是清首相や、野田卯太郎逓信大臣も困ってしまい、病院船にするとか、横浜港で海上ホテルにしてはどうかなどという案まで出た。結局こんな豪華船は、北太平洋航路も桑港航路を持っている東洋汽船しか使えないといわれ、浅野社長の決断で、同社が運航することになった。
(「豪華客船の文化史」 NTT出版 1993 p158 野間恒)

大正10年(1921)
○太平洋横断旅客船の今昔7、香港桑港航路開設。同航路開設10年後の1908(明治41)年には天洋丸13402総トン、地洋丸13426総トンを、また1911(明治44)年には三菱長崎造船所で建造された春洋丸13377総トンを、1916(大正5)年には太平洋郵船会社より買収したコレア丸11810総トン、サイベリヤ丸11790総トンほか1隻を、さらに1921(大正10)年には独乙よりの賠償船大洋丸14458総トンを加え、大いに名声を博した。けれども北太平洋航路は決して日本船の独擅場ではなく、日本郵船会社も東洋汽船会社も共に、米国船、英国船に対して受太刀の状態であった。そこで日本郵船は政府に対し、快速優秀船の建造の急務なことについて長文の建議書を提出した。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p16 高久虔一)

大正10年(1921)
○大洋丸の委託運航。旧ドイツ客船であったカップ・フィニステル(CAP FINISTERRE)は第一次世界大戦の賠償船として日本が取得したが、本船を回航してきた日本郵船は本船は喫水が浅く、トップヘビーであることを理由に運航を辞退してしまった。これには逓信大臣野村卯太郎も困ってしまい、病院船にしようとか、あるいは横浜の桟橋に繋船して海上ホテルにしようとか案が出たが、結局は時の総理大臣高橋是清らが浅野に依頼し、東洋汽船が大蔵省より運航を委託されることとなり、1921(大正10)年3月、横浜で受け取り直ちに三菱長崎造船所にて約30万円をかけて修理、改造して大洋丸と改名した。本船はボートデッキに大きな石でできたプールを有し、食堂も天井がかなり高かった。このトップヘビーの一因となる部分を改修することとなりまず取り扱いが困難なアンチローリングタンクをサイドタンクに交換したり、船底のバラストを追加した。また積み付けには重量物を下艙に積みトップヘビーを防止するように配慮することとした。修理が完了した大洋丸は大正10年5月14日、香港に向けて長崎を出帆した。浅野は本船が世上噂される危険な船ではないことを世間に知らせるために自ら同船に乗って香港に行くことにした。船長はベテラン東郷正作であった。東郷は大正4年アーネスト・ベントに代わって天洋丸の船長となりサンフランシスコ航路では初の日本人船長となった人である。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p80-81)

大正10年(1921)
 浅野が本船について感慨深いこと、それはおそらくこの披露航海に安田銀行の頭取である安田善次郎が同行したことだろう。安田は単に浅野の、そして東洋汽船のパトロン的存在である以上に浅野とは懇意な間柄だった。コレア・クラス購入時の立替をしたり、セメント事業拡張には先に立って同意し、第一次世界大戦の好景気で大量建造した船の材料代価の社債を引き受けたのもみなこの安田であった。それだけに安田が大正10年9月28日に大磯の別荘で凶刃に倒れたことは東洋汽船のみならず大きな損失であった。安田銀行側から後に、東洋汽船の借金返済を迫られた浅野は「それやァ話がちがう。わしは故善次郎さんから二億円までは融通するとの遺言を受けている。いままで借りた金は一億円ばかりだからまだ半分は残っている筈だ」とうそぶいた。浅野の人となりがうかがえる。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p81)


大正10年(1921)
3月、当帝国海事協会において検査を施行し、船級登録をするはずのキャップフイニスター号はすべて独逸式で、船内中央部に交際室、児童遊戯室、キエンダーガアデンが装置され、客室は五階で、五階より下層に通ずるエレベータを備え、上甲板には広い運動場、水泳場などがあって、内部の設備が完全であること、真に理想的である。
(「海事新報 328」 1921.4.1 p1)

大正10年(1921)
3月、一日に石炭400噸もいる不経済な船は、引き受けられないと日本郵船が拒絶し、政府も困り抜いていた時、浅野総一郎は横浜に出掛けて大洋丸の機関室に入り、そこにいた日本郵船の機関長から種々説明をうけた。総一郎の素人研究が三日も続いた時、機関長は「私の会社の重役は、只の一人も機関室まで入って来て研究した人はありません」と感心した。「サイベリヤ、コレヤの両船は、機関室のパイプが、13吋あるけれども、250噸しか石炭をくわない。大洋丸は11吋のパイプで400噸いるとはおかしい」と考えた総一郎の常識眼に誤りはなかった。大洋丸の今日の燃料は、僅かに一日175噸で足りている。
(「浅野総一郎」 愛信社 1923 p94 浅野秦治郎・浅野良三)

大正10年(1921)
○(■「政府委託船大洋丸」で1節。)独乙の戦争賠償船として、日本は4隻の船舶の交付を受けた。これらの船は日本郵船が政府の委託を受けて独乙より日本に回航したが、その中で一番大きいのがカップフィニステル号(14458総トン)、次はクライスト号(8999総トン)、残り2隻は小さな船であった。一番大きな船であったカップフィニステルも、当然日本郵船が引き受けて運航すると思われたが、日本郵船では回航時の経験から、豪華船であっても不経済で、しかも航海上安定を欠きやすいとの理由で、引き受けることを断った。同船には高いボートデッキにあたるところに大きな石でできたスイミングタンクがあり、航海中船客が水浴できるようになっていた。また、食堂の天井が高く、気持ちの良いものであったが、それだけ船体の上部が重くなり、いわゆるトップヘビーであった。しかも同船は南米方面への定期航路に使うため、河川用に適するよう吃水を浅くしており、これらが安定性を不十分にしていた。姉妹船の1隻は地中海で安定を失って転覆沈没した。また、燃料の石炭消費も比較的多かった。これらにより、病院船や海上ホテルなどで使用する案も出たが、結局このような豪華船舶の使用は桑港線を持つ東洋汽船以外にないとして、高橋是清総理大臣・野田卯太郎逓信大臣から浅野社長に依頼があって引き受けた。浅野は同船の日本到着時から性能や欠点など十分研究していたため、対策が考えられ、桑港線に使用しても相当の利益をあげうるとの見通しもついていた。同船は大正10年3月政府(大蔵省)から委託され、横浜で受け取って長崎に回航、三菱造船所で改造と破損復旧工事を約30万円で施行し、船名も大洋丸と改称した。変更工事の主なものは、アンチローリングタンクを簡単な外部タンクに付け替え、船底バラストの増量、バラストタンクのポンプ等の機動性を高める調整など。その他、貨物積載時に重量貨物を下艙に、軽量貨物を上艙に積んでトップヘビーを防ぐなど、運用面で配慮することにした。かくて工事が完了し、大正10年5月14日長崎を出帆、まず上海に至り南下、マニラ経由香港で米国その他向け貨客を積んで同港発、桑港線初の航海に赴いた。(大洋丸写真2枚有)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p187-190)


大正10年(1921)
3月、カップフィニステルは、高いポートデッキに、大きな石で出来たスウイミング・タンクがあり、航海中船客が水浴できるようになっていた。また食堂も天井が高く、これや丸の食堂の二倍以上もあり、はなはだ気持のよいものであったが、それだけ船体の上部が重くなり、いわゆるトップヘビーであったのである。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p188 中野秀雄)

大正10年(1921)
4月、カップフィニステルを政府(大蔵省管轄)から委託されたので、東洋汽船は同船を横浜で受取、直ちに長崎に回航し、三菱造船所において太平洋横断に必要な客船としての改造と破損復旧工事を、約30万円の支出で施行し船名も大洋丸と改名した。変更工事の主要点は、(1)独逸造船所が造った取扱い困難なアンチローリングを取外し、簡単なサイドタンクに模様替えした。(2)船底のバラストをふやして重くした。(3)バラストタンクのポンプ、バルブ、パイプ等を機械的に使えるよう調整した。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p188 中野秀雄)

大正10年(1921)
4月25日、大洋丸検査のためべリス氏長崎に出張す。5月10日、ベリス氏大洋丸の検査ほぼ終了して帰京す。5月13日、第12回船級委員会開催す。片山技師長より船級証書の記入方、検査証明書の発行方等につき審議す。べリス氏より大洋丸の船級を承認することに決定す。
(「海事新報 330」 1921.6.1 p38)

大正10年(1921)
5月、大洋丸は当時、航海上不安定で危険であると噂されていたが、浅野社長はそんな船ではないといって、安全に航海できる船である事を知らせることを目標に、荷主や関係者に挨拶する必要から、自ら大洋丸に乗って香港まで行くことにした。そこで金融上世話になっている安田銀行の安田善次郎頭取に、同行を誘ったところ、快諾したので同行することになった。一行は、安田翁と令息善雄、井上権之助秘書の三人、浅野社長、さく子夫人、慶子令嬢、小松隆秘書、大胡強参事の五名であった。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p190 中野秀雄)

大正10年(1921)
○当時大洋丸は航海上不安定で危険であると噂されていたので、浅野社長は安全に航海できることを世間に周知するため、荷主その他関係者への挨拶に、自ら同船に乗って香港へ向かった。その際、安田銀行の安田善次郎頭取も同行した。一行は、安田側は安田翁・令息善雄・井上権之助秘書の3人、東洋汽船側は浅野社長・さく子夫人・慶子令嬢・小松隆秘書役・大胡強参事の5人であった。大洋丸はベテラン東郷正作船長のもと、大正10年5月14日空船で長崎に出航し上海に向かった。呉淞(上海市)で当地の知名士多数を招待、安田翁と浅野社長が交々立って演説した。大洋丸は上海からマニラに直航、さらに5月23日香港に入り、それぞれの地で関係者多数を船内で歓待した。また、そのころ広東にいた支那革命の頭領である遜逸仙が、浅野・安田両氏を広東まで招待した。大洋丸は5月27日香港発、呉淞を経て6月1日長崎着、神戸・横浜を経て桑港線に就航した。浅野社長は安田翁に今後の事業の計画を説いて金融を依頼したと思われる。また、世間で問題視されていた大洋丸は、日本の大実業家と大金融家が定期航路をひと回りしたため、航海上不安のない船であると立証され、大きな宣伝となった。(集合写真1枚有)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p190)


大正10年(1921)
5月14日、大洋丸はヴェテラン東郷正作船長の操縦のもとに、空船で長崎を出航、上海に向かった。呉淞着の上、同地の知名の士多数を大洋丸に招待し、席上安田翁と浅野社長が交々立って演説、一同に感銘を与えた。大洋丸は上海からマニラに直行、マニラから5月23日香港着。両地とも多数の関係者や外人を船内に招いて歓待した。その頃支那革命の頭領孫逸仙が広東にいて、両翁を広東に招待、両翁は広東で孫逸仙と会談。大洋丸は5月27日香港発、呉淞を経て、6月1日長崎着。それから神戸、横浜を経て、桑港線に就航した。この間さく子夫人は、途中健康を害していたにもかかわらず、浅野社長を助け、船内の起居、外来者の応対はいうにおよばず、孫逸仙訪問の際も病苦をおして、一行の世話をしたという、涙ぐましい物語があるのである。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p188 中野秀雄)

大正10年(1921)
5月16日、東洋汽船会社使用の大洋丸は日・米航路に就航するその第一歩として、香港へ向かう途次、16日午後6時その巨体を上海呉淞沖へと予定時刻に現わした。
(「加越能時報 351」 加越能時報社 1921.6.23 p4)

大正10年(1921)
○5月16日、上海呉淞沖の船内を隈なく観覧。装飾その他頑丈なる組立は遺憾なくドイツ的色彩。最上A甲板には図書室、遊泳場、体操場、無線電信室あり。庭園に古風の藤椅子を並べ、花木は芳香を放ち、色ガラスは落着がある。遊泳場は広く体操場に電気仕掛木馬がある。B甲板は子供部屋、暗室及酒保があり、婦人室は清楚・美麗、喫煙室は最も装飾と構造の美あり、大理石の女神・男神の彫刻がある。
(「加越能時報 351」 加越能時報社 1921 p3 高波紅波)

大正10年(1921)
11月、独逸代償船は、在英我代表が8隻受領。二客船キヤプフインステレ号(14,500トン)は東洋汽船に、クライスト号(8,959トン)は日本郵船に、それぞれ二箇年貸下げ、貨物船アンスギール号(6,436トン)は公式受領前に沈没したので棄権。ビールフェルド号(4,460トン〉とノルマニア号(3,229トン)の二貨物船は、前者は神戸海運会社に二箇年貸下げのため浦賀船渠で修理中、後者は室蘭栗林商船会社に同期間貸下け実約が成立した。そのほかはいずれも貨物船のアペンニア号(5,753トン)、メクレンブルヒ号(3,461トン)、ウニーゼル号(1,028トン)である。
(「海事新報 335」 1921.11.1 p22)

大正10年(1921)
○甲板は八層にしてエレベーターに依り昇降することとなり、大食堂は壮麗にして天井高く玻璃を張り詰め噴水池の設けもあり採光通風間然する処なく、処々に食卓を配置し同行者又は一家族相団欒して卓に就の便あり、台北鉄道ホテルの食堂などの及ぶ処でない一等室は寝室応接室女中部屋荷物室の四室に区分されてある、二等室の設備は台湾航路船の一等室に優ること万々である、此他船内の設備を挙ぐれば各室に於ける電話談話室、食堂(以上男女別)喫煙室、児童遊戯場、奏楽場、遊泳場、無線電信室、理髪所、写真現象室、図書室、洗濯所、病院、応急用石油発電機、電話交換室、電気応用料理機等であるが注目すべきは風波烈しき時船体の動揺を制止する設備と、船内各室の空気を更新するオゾン発生機とである。
(「台湾日日新報」 1921.05.18-19)

大正10年(1921)
○独逸よりの代償船で今日までに受領したものは総計8隻即ちキャプフインステレ号、クライスト号、アンスギール号、ビールフエルド号、アンベンニア号、メクレンブルヒ号、ノルマニア号、ウエーゼル号の47829屯、未受領は138415屯に決定した。ただアンスギール号は公式受領前に沈没したので棄権、日本郵船の手で回航したキヤプフインステレ号は大洋丸と改称して東洋汽船に、クライスト号は日本郵船にそれぞれ二箇年期間を以って貸下げられた。
(「海事新報 335」 帝国海事協会 1921.11.1 p22)

大正10年(1921)
6月、浅野社長夫妻は、支援者安田善次郎やその家族と、日本から香港まで乗船してみせて、世間に大洋丸は安全な船だということを印象づけた。このことは、大実業家と大金融家が一緒に乗った船だということで、東洋汽船のよい宣伝になった。構造上の問題点は、すぐに三菱長崎造舶所で矯正され、運航もキメ細かな積載をして、安全性が配慮された。
(「豪華客船の文化史」 NTT出版 1993 p15 野間恒)

大正10年(1921)
○6月、処女航海に安田さんを引っ張り出して、上海から香港、マニラと回った。船の中で安田さんと、不景気で誰も仕事をしないから、二人で大いに仕事をしようではないか、という相談をした。安田さんは俺に、二億までは金を出す、これは預金者に少しも迷惑をかけずに出せる金だから心配せずに使いたまえ、と言われた。
(「稼ぐに追いつく貧乏なし」 東洋経済新報社 1998 p188 斎藤憲)

大正10年(1921)
○淺野総一郎は、船が充分に航海に耐える優秀船であることを見極めたが、しかし世間は安全だと思わない。彼は一計を案じ、銀行王安田善次郎を誘って、大洋丸と名付けたこの船で、上海まで初航海することにした。用心深い安田善次郎が乗ったとなれば、安全性を疑う者はいなくなるだろう。大正10年5月14日、安田と総一郎を乗せた大洋丸は長崎を発して、上海、マニラ、香港、広東を回る。この航海には妻のサクや娘の慶子も一緒だ。広東では広東政府を樹立して間もない孫文とも会った。大洋丸の無事航海は、予想どおり世間の注目を浴びた。悲劇は、それからまもなく起きた。9月29日、安田善次郎が暴漢に刺殺されたのだ。
(「その男、はかりしれず」 サンマーク出版 2000 p247 新田純子)

大正10年(1921)
6月、大洋丸処女航海時、浅野社長に金融王安田善次郎が同行したが、安田は単に浅野のパトロン的存在である以上に懇意な間柄であった。「これあ丸」購入時に立替えをしたり、セメント事業拡張には先に立って同意し、第一次世界大戦で大量建造した船費の社債を引き受けた。それで安田が、同船航海直後の大正10年9月28日大磯の別邸で、寄付強要の男の凶刃に倒れたことは、浅野の大損失であった。後に安田銀行側から東洋汽船の借金返済を迫られた浅野は「それやァ話がちがう。私には善次郎さんから二億円までは融通する遺言があった。いままでの借金は一億円ばかりだから、まだ半分は残っている」といつた。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 海運船舶部会 1987 p81 横浜編纂チーム)

大正10年(1921)
○東洋汽船は政府より大洋丸の管理使用を委託され、大正10年5月より桑港航路に加入させた。同船は元独逸ハンブルク南米汽船会社の所有であって、Cap Finistereと称し、独逸南米航路に使用せられ、結構壮麗を極めた。特に熱帯地方航行のため、水泳場の設備あり客船として風評すこぶる佳良である。
(「神戸海運50年史」 神戸海運業組合 1923 p278)

大正10年(1921)
○欧州大戦が大正4年に始まると太平洋汽船会社が桑港航路を廃止したので、我社はその使用船これや丸、さいべりや丸、ペるしや丸の3隻を買収した。大正10年に政府から独逸賠償船キャップフィニスター号の運航委託を受け、これを大洋丸と命名し、天洋丸、春洋丸、これや丸、さいべりや丸、大洋丸の計5隻で桑港航路を経営した。
(「我社各航路ノ沿革 社外秘」 日本郵船貨物課 1932 p540)

大正10年(1921)
○7月、ワシントンに駐在していた山本五十六に海軍省から帰国せよとの命令が出た。二年間のアメリカ滞在で、山本が得たものは大きかった。残念なのはビリー・ミッチェルの爆撃実験の直前に帰国することである。出来れば自分の目で飛行機による軍艦の爆撃がどのようなものであり、どれほどの威力を発揮するものかたしかめておきたかった。ワシントンを発った山本五十六は、7月上旬桑港で大洋丸に乗船した。
(「真珠湾攻撃その予言者と実行者」 文芸春秋 1986 p57 和田頴太)

大正10年(1921)
○5月5日、山本五十六中佐は帰朝を命ぜられ、横浜到着は7月19日であった。
(「山本五十六・その昭和史」 秀英書房 1979 p81 楳本捨三)

大正10年(1921)
○第1回の米国生活から帰国した時、山本はすでに、航空軍備の将来性について、徹底した考えを持ち、石油無くして海軍無し、航空軍備に眼を開けと言っていた。
(「山本五十六」 新潮社 1964 p66 阿川弘之)

大正10年(1921)
○大正10年の夏の終わり、僕は友人山田珠樹と、ハンブルクの海岸通りで、若いドイツ人に出会った。青年は第一次大戦前、日本に住んで、山田の父親が重役だったドイツの薬品の会社に勤務していたので、山田もその青年を知っていたのだ。大戦が始まると青年はドイツ軍に召集されて、欧洲の各地に転戦したが、祖国の敗北後また元の商会に勤め、今はここの支店で働いているのだった。青年は商会のランチが一隻自由になるといって、二人を港見物に連れていってくれた。ランチは百トンほどの美しい船だった。欧州大戦終結のためのヴェルサイユ平和条約が決定して聞もない頃だったから、ハンブルグ港内には、すでに戦勝の国々に引渡すことに決まったドイツ商船が2、30隻空しく浮かんでいた。悲しい壮観だった。もっとも大きいのが、六万トンのビスマルク号で、それに続く四万トン、三万トン、日本に引渡してから大洋丸となった一万トンの船もその中に交っていた。ドイツ青年は撫然としてその巨船群を眺めていたが、やがて「もう今は、この船団はみんなドイツのものではない。あれは英国へ、それは米国へ、これは日本へ。もうわれ等は一隻の船も持っていないのです」とつぶやいているうちに、青年の両眼から、しきりに涙が流れ、彼はうなだれて、鳴咽した。当時、われわれは英米仏と結んでドイツの敵となった国の国民だったが、目の前に祖国の悲運に泣く若き愛国者を見て、悲しみを分かつ想いだった。
(「凡愚問答」 角川新書 1956 p105 辰野隆)

大正10年(1921)
1月、カップフィニステルは、独逸で南米ブエノスアイレス方面への定期航路に使うため、河川用に適するように、吃水を浅くしていたので、安定性を欠いていた。その姉妹船の1隻は地中海で安定性を失って、転覆して沈没したとの話もあった。また一方燃料の石炭消費も多く、到底経済船とはいえなかった。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p188 中野秀雄)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:35| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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