2015年03月17日

大正11年(1922)

大正11年(1922)
○大洋丸と、CPLのエンプレス・オブ・オーストラリア(21,861噸)という独逸の有名客船二隻が、太平洋で別々の船主のもとで運航された。後者はハバグの南米線用に計画された客船テルピッツであるが、大戦で工事中断。戦後に完成、賠償として英国にわたり、CPLが払い下げた。この船は独逸勝利の暁には、ビルヘルム二世の訪英時のお召し船に予定され、船客設備の豪華さは太平洋では群を抜いていた。
(「豪華客船の文化史」 NTT出版 1993 p158 野間 恒)

大正11年(1922)
○当時太平洋航路では、東洋汽船のかっての豪華船天洋丸と春洋丸(1万3千トン、14.5節)、大洋丸(1万4千4百トン最高速力16.62節)が運航していたが、米国パシフィック・メイル社のプレジデント型優秀船(1万4千トン17節)5隻、カナダのエンプレス型優秀船(2万トン)2隻の配船により、日本の低速の貨客船は強い圧迫を受け、危機的状態に陥って行った。
(「海運業の経営と技術」 日本経済新聞社 1982 p72 高柳 暁)

大正11年(1922)
○4月、ベストセラー小説「地上」の印税で、島田清次郎が外遊する船は、日本郵船の大洋丸である。夫の狂暴な振る舞いで、疲労の極にあった新妻の豊子は、その日が変更しないことを願ったが、彼女の次兄は、越中島の高等商船を出た日本郵船の機関士で、郵船の船はめったに出港の日時を変更しないことを知っていた。
(「天才と狂人の間−島田清次郎の生涯」 河出文庫 1994 p148 杉森久英)

大正11年(1922)
○私が高校生活を送った石川県七尾市の出身である杉森久英さんの直木賞作品「天才と狂人の間」には、金沢を舞台にしたベストセラー小説「地上」を書いた島田清次郎が、大洋丸で横浜から世界一周に旅立つところが描かれている。
(「読売新聞 43679 金沢/富山版」 1997.11.30日刊 p23 深井人詩)

大正11年(1922)
○WWT終結後、各国が競って太平洋海運を強化。競争激化により東洋汽船は苦境に追い込まれた。T11.09.29株主総会で浅野社長陳述。「桑港線については、相手は当社の船より1日早く出帆、2〜3日も早く入港する。よって、客も荷物も船室および容積が半分にも満たない有様。相手の大型船は当方より3ノット速いので、太平洋を3〜4日速く渡れ、船も新しいから、今の日本の商船会社では太刀打ちできない。相手は米政府・船舶院の船であり、アメリカ国家と競争しているようなもの。政府の力で、2.5万〜3万総トンの船を、シアトル・タコマの方へ3隻、桑港の方へ3隻回していただきたいと思っている。」ただし「ホノルルに寄る当方は3等客は案外減らない。」
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p185)

大正11年(1922)
当社としても一生懸命であった。桑港線の各船は機関を調整して概してシー・スピードを16浬以上にしていた。左表が実際の航海速力である。
 大洋丸:3390・8.17.52・16.15/2090・5.8.53・16.21
 天洋丸:3394・8.23.18・15.76/2096・5.16.16・15.38
 春洋丸:3390・8.20.27・15.96/2092・5.3.39・16.92
 これや丸:3394・8.13.38・16.50/2093・5.6.12・16.58
 さいべりあ丸:3390・8.20.45・15.94/2102・5.8.10・16.40
 (数値:横浜ホノルル間距離・航走日時・1時間平均速力/ホノルル桑港間距離・航走日時・1時間平均速力)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p186)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:36| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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