2015年03月17日

大正12〜14年(1923〜25)

大正12年(1923)
○6月23日、大洋丸に久邇宮殿下が乗船。その時淺野総一郎が船長役で、妻サクが運転の舵をとっている写真を、殿下にご覧いただいた。
(「淺野総一郎」 片山春帆画・佐藤名川書 1924 17項目)

大正12年(1923)
○浅野は、天洋丸、地洋丸、春洋丸、大洋丸らが横浜を出帆する時は、必ず人力車で訪船して見送っていたという。また令嬢が嫁いだときには、それまでの衣装を全部船上公演用にと寄付した。
(「旅客船 210」 日本旅客船協会 1999.11 p9 野間恒)

大正12年(1923)
○関東大震災時の救助活動と被害。1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災で横浜市内の諸官庁が焼け、通信機関が麻痺したため、横浜港に停泊している船舶の無線電信機を用いて災害地外へ電信を打った。これらの情報は対米通信用に設けられた磐城無線電信局へ送られ、局長が直ちに英訳してホノルルやサンフランシスコへ送信され、大震災のニュースが世界に伝わった。救助活動には大洋丸なども活躍し、「海運興国史」によればこの救助活動にあたった邦船は96隻ともいわれている。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p82)


大正12年(1923)
○9月、りおん丸他が震災後の2日から8日に、横浜港からの輸送人員は22000人。海軍が輸送した避難者36898人、便乗者乗船23500人、鉄道省連絡船の乗船人員は7900人。私設船無料輸送人員として大洋丸が9日、清水港へ2500人を輸送した。
(「大正大震火災誌」 神奈川県警察部 1926 p471)

大正12年(1923)
○日本郵船社員及び会員属員の家族は9月15、16日頃横浜発の大洋丸で神戸に輸送し、社費で、当分住居生活の途を講ずるから、至急横浜港停泊中のこれや丸に来船のこと。ただし東京横浜方面の社員と事情ある者はその限りにあらず。これや丸の出航は、新山下町埋立地グランドホテル横か、イギリス波止場である。日本郵船社告。
(「東京日日新聞 16878」 1923.9.16日刊 p4)

大正12年(1923)
○9月9日、北米から急行した大洋丸は、清水行避難者2550人、神戸行250人、合計2800人を乗船し、9日横浜を出港し、17日には再び横浜に帰港し、さらに清水行避難者1828人、神戸行445人、合計2273人を乗船、横浜港を出港した。
(「海事参考年鑑 大正13年版」 有終会 1924 p260)

大正12年(1923)
○大洋丸は、北米から横浜に急行、罹災民清水行2550名、神戸行250名、計2800名を搭載して、9日横浜発、両地にて罹災民を陸揚し、17日再び横浜に帰港。焼跡桟橋に繋留、更に罹災民清水行及神戸行2273名を搭載して、20日横浜を出航、震災後桟橋に繋留した第一船である。横浜港は、震災のため荷役不能となったので、大洋丸は、北米積横浜揚貨物は全部、神戸にて陸揚。25日神戸を出航、15日を経て、北米航路に就航した。
(「横浜市震災誌4」横浜市役所 1927 p373)

大正13年(1924)
○大正13年11月、約3週間ドイツの工業状態を視察、12月3日ロンドンを経由して、10日ニューヨークに着き、5週間アメリカとカナダを旅行し、1月15日サンフランシスコ出帆の大洋丸によって2月1日横浜に帰り着いた。
(「近藤記念海事財団講演 2」 同財団 1924 p4 加茂正雄)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:37| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: