2015年03月17日

大正15年(1926)

大正15年(1926)
○客船隊、日本郵船へ移る。第一次世界大戦後の海運界は世界経済の不況を受けて不振を続けていた。日本郵船や大阪商船などは大型船を引き揚げて打撃を避けたが、多くの航路を持たない東洋汽船は老朽船に鞭打って対抗せざるを得なかった。新船を建造しようにも安田善次郎の突然の死で東洋汽船は資金源を断たれていた。安田の死後に保善社専務理事となった結城豊太郎は、安田銀行の近代化・組織化を最優先させ、海運業への新規融資どころか、滞貸の速やかな回収を計画した。このため東洋汽船では安田銀借入金の肩代わりを第一銀行に依頼する案さえ検討された(杉山和雄『海運業と金融』海事産業研究所編による)。政府は多年巨費を投じてきた桑港線を破棄するのは体面上忍びないとの見解で、海運界の反対論にもかかわらず当線の補助を決定した。ただ、東洋汽船の実情では路線の維持が困難とみられ、日本郵船との合併案に活路を見出した。郵船は、東洋汽船の陸上財産と貨物船を除き、桑港線・南米線の営業権と使用船8隻、委託船大洋丸とその使用権を譲り受けることになった。大正15年2月16日、浅野社長と郵船の白仁社長との間で合併準備契約書の調印が行われ、3月10日合併が終了した。ここに、明治31年竣工の日本丸により開始された東洋汽船の客船サービスは、28年目にしてピリオドを打った。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p83-4)


大正15年(1926)
○5月、日本郵船は東洋汽船との合併で大蔵省より委託船大洋丸と吉野丸の払下を受け、桑港線の業務を、天洋丸、春洋丸、これや丸、さいべりや丸、楽洋丸、安洋丸、墨洋丸、大洋丸で開始した。
(「五十年史」 日本郵船 1935 p350)

大正15年(1926)
○5月15日、欧州大戦後不況のため、東洋汽船の桑港航路は経営困難となり、遠洋航路受命船として失格。逓信大臣安達謙蔵氏の斡旋で、東洋汽船は第二東洋汽船を設立し、日本郵船と大正15年5月15日、合併。桑港航路と南米西岸線の営業権及使用船を日本郵船に譲渡した。当時大洋丸は政府所有船で運航委託中であったが、昭和4年5月4日、郵船で払い下げを受けた。
(「我社各航路ノ沿革 社外秘」 日本郵船 1932 p540 郵船貨物課)

大正15年(1926)
○8月、その頃飛行機はなく、アメリカに行くのに船で17日かかった。23歳の私は、初めて日本を離れてアメリカに旅立った。ワシントンの日本大使館づめとなった夫とともに姉が渡米することになったので、姉一家と共に大洋丸に乗り込んだ。大洋丸は当時としては大きな船だったが、豪華船というにはほど遠かった。
(「太陽 95」 講談社 1971 p67 石垣綾子)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:39| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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