○3月27日、陸軍騎兵大尉・栗林忠道(38歳)は大洋丸に横浜から乗船、軍事研究のために渡米した。ハワイ経由で4月13日サンフランシスコに到着した。
(「「玉砕総指揮官」の絵手紙」 小学館文庫 2002 p7 吉田津由子)
昭和3年(1928)
○遠洋汽船船賃ホノルル港より各地への汽船船賃以下の如し。日本郵船会社(ホノルル出張所、マーチャント街)所属船 本航路は、大洋丸、天洋丸、春洋丸、コレヤ丸、サイベリア丸就航。ホノルル横浜間(片道)1等232ドルは「大洋丸」・天洋丸・春洋丸。1等161ドルはコレア丸・サイベリア丸。2等は119ドル(大洋丸を除く)。2等139ドルは「大洋丸」。2等B101ドルは「大洋丸」。3等は55ドル(各船同様)備考:上は戦時税を含むものにして子供は満2才より10才までを半額とし2才以下は全額の10分の1、10才以上は全額(各等共)。3等の場合は全額55ドル、半額27ドル、5才以下5ドル10セントと定む。
(「布哇年鑑1929年度」 日布時事社 1929 p133)
昭和4年(1929)
○3月29日、午後1時5分横浜臨港線行にて東京発車。水上署の旅券検査後、大洋丸の百三十一号室に乗船。一同葡萄酒の杯を上げ見送の方々下船。午後三時出帆、出帆後十四五歳の男子密航発見。小艇呼寄せ送り返し二時間空費す。4月3日毎夜タキシード着用、食卓に出る。夜8時活動写真あり。米大陸、布哇、水泳の場面など見る。4月4日夕食後右舷甲板に舞踏会あり。船内には電力各種の運道具、遊戯品備付あり、無聊を感ぜず。通話出来れば面白からんに残念なり。東南風強く吹き浪高けれど不快なく、阿呆鳥船に数多従い来るを見る。
(「遊行録」 豊島半七 1930 p1-4 豊島半七)
昭和4年(1929)
○10月、日本郵船が東洋汽船継承当時、北方航路ではCPSが優秀客船を動かし、競争力に勝っていた。郵船使用船はいずれも相当船齢を加えていたので、浅間丸、新田丸、秩父丸の3船を建造した。桑港線には新船浅間丸が就航、同線の旧船さいべりや丸が昭和4年9月沙市線へ転配、同じく大洋丸は昭和4年10月、自由船となった。
(「我社各航路ノ沿革 社外秘」 日本郵船 1932 p542−543 郵船貨物課)
昭和4年(1929)
○独逸の賠償支払の初期に、各国は沢山の船舶を引受けました。我国では、まずCap Finistere号を受取り、東洋汽船会社に貸付け、貸付料を収受しました。同社ではこれを大洋丸と改称し、米国航路に就航しました。皆様よくご存知のあの大洋丸でございます。東洋汽船が日本郵船と合併後は日本郵船に貸付けていましたが、大蔵省は昭和4年5月に同船を郵船に譲渡し、その代金は賠償金特別会計に入れました。次に受取ったKleist号も、郵船に貸付け、吉野丸と改称されましたが、同じく昭和4年5月、日本郵船に譲渡しました。
(「日独文化講演集7」 日独文化協会 1931 p24 大竹虎雄)
昭和4年(1929)
○昭和4年、秩父丸17500トン、浅間丸16900トン、竜田丸16900トン、この三隻の出現を見るまでは、大洋丸14400トンが、日本最大巨船であった。
(「現代の優秀客船」 大阪宝文館 1931 p20 木越 進)
昭和5年(1930)
○1月、横浜から大洋丸で出航した藤田嗣治・ユキ夫妻はアメリカを経てパリに戻った。半年ぶりのパリは、日本への初帰国で傷ついた心を癒してくれるはずだった。だが、見慣れた街の風景は様子が違っていた。20年代、繁栄を謳歌したフランスにも経済恐慌が波及、絵画の値段が暴落し、画商は次々に店をたたんだ。藤田も金策のために個展を開いたが、半分が売れ残った。自動車を売り払い、モンスーリ公園そばの豪華なアトリエも手放し、引っ越したのはラクルテル街の小さなアトリエだった。
(「藤田嗣治「異邦人」の生涯」 講談社 2002 p148 近藤史人)
昭和5年(1930)
○処女航海の氷川丸は米国から横浜、神戸、門司、上海を経て、香港に昭和5年7月12日未明入港、加拉丸が桟橋に、大洋丸はブイに繋留していた。ともに日本郵船の船である。氷川丸は5月13日に神戸を出てから63日の長旅であった。
(「氷川丸物語」 かまくら春秋社 1978 p42 高橋茂)