2015年03月17日

昭和6年(1931)

昭和6年(1931)
○4月、税関職員だった父の勤務先上海へ向け、杉田さん一家が大洋丸で神戸港から出帆する時の様子を、知人のカメラマンが16ミリで撮影した。大洋丸のフィルムを保存していたのは鎌倉市の杉田操さん(70)で、現在残っているのは約5分間、見送りにきた親戚らとの、ほのぼのとしたやりとりを収めている。
(「続・大洋丸誌」 大洋丸会 1995 p251 佐藤祐弘)

昭和6年(1931)
○6月18日、午後3時、横浜の埠頭と郵船大洋丸を繋ぐ数千百の5色のテープが美しい。24日は船員一座の余興芝居。定刻8時前から大入りの盛況、乗客一同の旅情を慰めるには12分の効果はあったと思うが、無遠慮に評すれば、筋書きや趣向に多少下品な点があって、あらずもがなと思われる節も少なくなかったことを遺憾とする。
(「鴻爪所感」 秋水社 1932 p14 長尾半平)

昭和6年(1931)
○7月、全世界の視聴を集める日米水上対抗競技に出場のため大洋丸で来朝した米国チーム、大洋丸デッキに並ぶ米国チーム水泳パンツ姿13人が並んでいる。
(「海の旅 6.4」 日本郵船 1931.10 p11)

昭和6年(1931)
○8月、私の留学が決まったので、父は500円を用意してくれたが、その時の為替率でそれは2500ドルに相当した。ローレンス・カレッジでの授業料と寄宿舎費用(部屋代と食費)は合わせて600ドルぐらいだったので、他の出費(米国内の旅費や日用品、教科書の購入等)を考えも、これで2年間の滞米に十分だろう、と考えられた。こうして私は8月27日に、ポータブルのタイプライターと大小二つのスーツケースを持ち、大洋丸の乗客となって渡米したのである。ホノルル経由、太平洋を2週間かけて横断した大洋丸は、昭和6年9月11日の午後、米国西海岸の桑港に入港した。
(「いくつもの岐路を回顧して」 岩波書店 2001 p54 都留重人)

昭和6年(1931)
○12月12日、大洋丸後部3等船客一同から大洋丸事務長殿へ感謝状、今般貴社汽船大洋丸東行便乗の際、従前乗船せしに勝る取り扱い上の優待なること、卓上食物の美味清潔、室内掃除浴室などの注意怠りなく、係り司厨事の見廻り注意など、何ひとつとして愉快ならざる無く、旅の慰めに活動写真ほか余興などの催し、日夜茶菓の供応、すべての取扱いに対し我々乗客一同感謝の意を、申し述べ候事なり。
(「海の旅 7.1」 日本郵船 1932 p11)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:43| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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