2015年03月17日

昭和7年(1932)

昭和7年(1932)
○3月31日、映画「アメリカ」ロケーションのため横浜から神戸まで大洋丸で渡航の不二映画のスター岡田時彦氏、高田稔氏、米国名優ロナルド・コールマン氏。
(「海の旅 7.1」日本郵船 1932 p16)

昭和7年(1932)
○6月5日、大洋丸の藤岡由夫君へ無電送る。「短夜や明日は故郷に薫る風」。6月6日、6時不二屋で小宮君と会し竹葉夕食、新田で撞球、湯本筒井平田三君が藤岡君を迎えに行った帰りに立寄った。
(「寺田寅彦全集 22」 岩波書店 1998 p242)

昭和7年(1932)
○藤岡由夫、物理学・統計力学。ドイツに留学。父・国文学者藤岡作太郎。妹・綾子は中谷宇吉郎妻。
(「窮理為楽−藤岡由夫追憶」 出版委員会 1980 p285-287)

昭和7年(1932)
○遠征の日を前に朗らかに多忙な女流選手たち、昨夜は洋食のたべ方練習の陽気な晩餐会
(「東京朝日新聞 16582」 1932.6.26日刊 p11)


昭和7年(1932)
○選手歓送第二回オリムピツク列車、横浜埠頭で大演奏会並に大合唱。オリンピック派遣選手の、各選手および体育協会本部役員ら104名は新興日本の堂々たる陣容を整えて、30日(木)午後3時横浜出帆の大洋丸で晴れの首途につきます。本社は遠征選手の健闘を激励し、その勝利を祈るため前回同様横浜臨港特別列車第二回オリムピツク列車を仕立て横浜港に栄ある選手の鹿島立ちを見送り、埠頭において府立第一商業生徒のバンドによる本社のオリンピック応援歌の大演奏及び来会者の大合唱を捧げて代表選手を歓送致します。左の規定により一般読者諸君の参加を希望致します。(往)午後零時10分東京駅発、同零時54分横浜港着(途中無停車)、(復)午後3時43分横浜港発、同4時27分東京駅着(品川駅停車)。参加申込は本社受付にて450名に限り往復特別乗車券(整理のため1枚30銭)を発行致します。主催東京朝日新聞社
(「東京朝日新聞 16582」 1932.6.26日刊 p11)


昭和7年(1932)
○オリムピツク第二陣愈々あす船出、各送別会をのぞく
(「東京朝日新聞 16585」 1932.6.29日刊 p7)


昭和7年(1932)
 集合写真。六月三十日横浜を解纜した大洋丸船上に於ける日本チーム(男子陸上競技及男子競泳を除く)。
(「第十回オリンピツク大寫眞帖」 帝国公民教育協会 1932 ノンブル不明)


昭和7年(1932)
○オリンピックへの行進!第二部隊の出征、希望に輝く選手達、国民的熱情で見送る群集、思い同じく、ただロサンゼルスに掲揚する日章旗と君が代だけである。その決心に燃える多勢の女流選手と、拳闘、レスリング、端艇、水球の勇士達、それに役員併せて百四名をのせて、ニッポン晴の6月30日、大洋丸は解纜した。
(「東京朝日新聞 19587」 1932.7.1夕刊 p1)

昭和7年(1932)
○6月30日、田中英光は母斉(ひとし)に見送られ、大洋丸で横浜港を出港。7月1日船で練習開始、狭い甲板を各種目の選手が交互に使用、日課は7時―30分体操選手指導のデンマーク体操、朝食後10-11時半、バック台、駆足、棒引、速歩、昼食後休養、3時半から午前と同じ練習、6時夕食、夜は自由時間となっていた。ボートデッキの右舷は慶大、左舷は早大が占拠、共に胸と袖に赤い線の入ったユニホームを着用、真夏の炎天下、洋上で汗を流す。2日夜、映画「栄光を目指して」上映。4日朝遭難訓練、昼、船員招待の園遊会。6日、入場式の練習、夜甲板ですき焼会。高知県の女子選手相良八重に、父母が同郷の英光が好意を寄せ、先輩から揶揄される。8日風雨強く荒れる。船酔いひどく、夜、食堂に出た女子選手は相良、中西(京都二条女・ハードル)の二人だけ。9日荒れ模様続く。夜、甲板のすき焼会は出席者少なく、酔い止めに禁酒がとかれる。11日午前6時、ホノルル着。
(「田中英光全集 11」 芳賀書店 1965 p443 林清司)

昭和7年(1932)
○7月1日、波は昨日よりもあり、船は大分動揺しているので、気に弱い選手は、今にも船に酔うのではないかと心配し始めた。鉄棒上の試技は、船の動揺で恐らく一番難しく、鞍馬が一番平易に出来るであろうと考えていたが、全く正反対で、コーチもいささか面食らった。こんな動揺する船の上で練習すると、陸上で具合が悪くなるから、よい加減にした方がよい、という横着な意見もでた。
(「アスレチックス 10.9」 大日本体育協会 1932 p137 高木武夫)

昭和7年(1932)
○大洋丸に乗り込んだ日本チームの陣容。(1)本部役員:平沼団長、今村顧問、郷名誉主事、佐藤会計部長、渋谷総務委員、野口会計主任、李庶務主任、斎藤医員。(2)女子陸上:役員2名、選手9名。(3)女子競泳:杉本コーチ+選手6名。(4)飛込:島崎コーチ+男子選手3名女子選手1名。(5)水球:選手9名。(6)漕艇:役員コーチ4名選手18名。(7)拳闘:役員2名選手5名。(8)レスリング:佐藤監督+選手5名。(9)ホッケー:広瀬監督+選手13名。(10)体操:役員3名選手6名。(11)芸術競技:神津氏。(12)マッサージ:3名。その他:嘱託4名。すなわち合計106名という大チームである。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p306)


昭和7年(1932)
○ぼく坂本は身長6尺、体重19貫、ベビー・フェイス、啄木を愛する純情な文学少年である。選手団を乗せた大洋丸は熱狂的な歓送を受けて横浜を出帆する。船での映画会の夜、Aデッキで初めてあなたに会った。ぼくは選手名簿で、あなたが熊本秋子、20才、高知県出身、N体専在学、種目ハイジャンプ、記録1m57であることを知る。
(「高知新聞 30842」 1991.8.26日刊 p3 山田一郎)

昭和7年(1932)
○午前9時半頃から飛込みだけの練習にかかります。これは帆柱を利用して陸上練習機を船中に作りあげたもので、航海で陸上と同じ飛込み練習が出来るのです。これは船の方の非常な御厚意によってこの設備を作り得たこと、も一つは海が非常に静かでまるで太平洋という小さな湖を航海しているような有様で平気で飛板の上で体の平衡を保ち得るからです。この練習は12時まで続きます。
(「アスレチックス 10.9」 日本体育協会 1932 p129 島崎保正)

昭和7年(1932)
○大洋丸船内の諸設備は独逸式のもの多く、洗面台とか、便所などのスケールが大きく、どうも日本人には少し高く感じられる。なお、この船で著しいのは、キャビンからキャビンへ、ドアによって全部通じる仕組みになっている事である。聞くところによると、これは、独逸が、一朝事ある時には、直ちに徴発し、病院船として使用するため、ドクターの往診の便宜上、各室全部回診が出来る。
(「アスレチックス10.9」 大日本体育協会 1932 p117 野口岩三郎)

昭和7年(1932)
○東京で規則正しい合宿練習を終え、皆さんの見送りを受けて大洋丸に乗り込みました。船に不慣れな私は、この永い航海を何よりも心配しました。そして刻々と船が故国を離れる時、必勝を胸におさめた私は、一層その思いの切なるものを覚えました。故国でのコンディションを船中で、彼地で保持せねばならぬのが第一条件でしたので、船中では高田通先生、山岡先生が私共の身の上を非常に心配され、ある時は練習に、ある時は遊戯に談話に、絶えず御指導下さいました。船に酔う心配をした私でしたが、甲板での競争や遊戯、器械馬に乗って遊んだりして、愉快に毎日の練習ができました。
(「第十回オリムピック大会報告」 三省堂 1934 p243 広橋百合子)

昭和7年(1932)
○6月30日午後3時、オリンピック船大洋丸は怒涛のような万歳の嵐に送られ、ロサンゼルス目指して4号岸壁から静かに滑り出した。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p325)


昭和7年(1932)
○5月、広橋百合子は大阪市設グランドで行われたオリンピック近畿地区予選会で走り高跳び日本新記録1m48をとんだ。着物姿が普通の時代、短パンをはいて極限に挑戦する姿は、当時の人々には異様に見えた。「広橋の娘、あれは男やないか」とまで言われた。ロサンゼルスのホテルのエレベーターの中で一緒になった外人選手が「あなたは何に出場するの」と尋ねるので「ハイ・ジャンプ」と答えると、「バーの下をくぐった方が早いわね」と笑われ、渡米初日にみじめな思いをした。
(「スポーツ押水」 押水町体育協会 2003 p20 広橋百合子)

昭和7年(1932)
○「第十回オリムピック大会報告」には役員報告と選手報告が載っている。熊本秋子のモデルとなった相良八重の「淋しいスパイクの跡」の他、内田のモデル中西みち子、中村のモデル広橋百合子らの報告もある。これを読むと各選手たちの船内生活が、周到な健康管理と練習計画によって進められていたことが分かる。オリンピック大会で最善を尽くすための節制と精進が、選手たちに課かされていた。船旅での解放的気分が選手たちにあったが、男女交際はタブー視されていた。
(「国文学解釈と鑑賞 54.6」 至文堂 1989 p115 島田昭男)

昭和7年(1932)
○サイン・写真・挨拶などと目を廻しているうちに、ドラが鳴り渡り、荘厳なる君が代・オリムピック応援歌・校歌に送られ、大洋丸は横浜埠頭を離岸。選手達の船上生活が始まった。信州の山国に育ち、海は数えるほどしか見た事の無かった私は、荒れ狂う波ばかりを想像して、どんなに恐ろしかろうと、心配していたが、そんな心配はいらなかった。海は来る日も来る日も、風も無く、波も無く、静かだった。時々飛魚が銀色の腹を見せ、紺碧の海面をつーと飛んだり、沖にポッカリと、イルカが浮き出る事も、アホー鳥が船を追って来る日もあった。
(「第十回オリムピック大会報告」 三省堂 1934 p247 真保正子)

昭和7年(1932)
○大洋丸の舷では、槍の真保が、大洋にむかって、紐をつけた、槍を投げている。ブンと風をきり、50米も海にむかって、突き刺さって行く槍の穂先が、キラキラと陽に眩めくのが美しい。上の甲板から、ダイビングの女子選手が胴のまわりを吊環で押さえ、空中に、さッと飛ぶ。
(「オリンポスの果実」 新潮文庫 1991 p32 田中英光)

昭和7年(1932)
○女子水泳の前畑秀子孃達は、まだ水をいれない空のプールの周りに集まって「泳ぎたいわ泳ぎたいわ」と歓声をあげたが、女子陸上のグループにピンポンの試合を申込み、Bデッキで対抗競技が始まる。
(「東京朝日新聞 16587」 1932.7.7日刊 p11)

昭和7年(1932)
○往航の乗船は第一隊龍田丸(陸上男子、水上男子競泳)第二隊大洋丸(陸上女子、水上ウオーターポロ、女子競泳、ダイヴィング、漕艇、ボクシング、レスリング、ホッケー、体操)であるが、第二隊の大洋丸は実質上オリムピック船と称し、ツーリスト、キャビンの殆んど大部分を110余人の一行によって占領し、団員も随員も船内をかなり自由に使用できると予想していたが、出帆後船内使用規定を聞いて唖然とした。1等デッキを使用できるのは一日中極めて限られた練習時間のみであって、それ以外は厳格なる船内規定によって乗客の等級を厳密に主張励行されたため、休憩時間にキャビンに閉じ込められる息苦しさより解放されようとすれば、狭い2等デッキを彷徨するよりほかなく、わずか3、40坪位の日影のないデッキに50余の椅子を並べて炎天の下に油汗を流しながら、転寝を貪るさまをみるとき、我が身を削られるような焦燥の念に襲われた。そうじて大洋丸の幹部諸公は航海の最終まで、なんとなく冷淡な印象を一行に感じさせ、これに比べて下級船員は、常に温かい心をもって一行を慰労してくれたことを、せめてもの土産としなければならぬ。
(「第十回オリムピック大会報告」 三省堂 1933 p275 李想白)

昭和7年(1932)
○往航の乗船は第一隊龍田丸(陸上男子、水上男子競泳)第二隊大洋丸(陸上女子、水上ウォーターポロ、女子競泳、ダイビング、漕艇、ボクシング、レスリング、ホッケー、体操)。第一隊は満足な航海を続けたようだ(が、第二隊は選手団の不満が強かった)。船内をかなりの程度自由に使用しうるものと予想していたが、出帆後船内使用規定を聞いて唖然。「特殊の好意」によって一等デッキを使用できるのは限られた練習時間のみで、それ以外は厳格な船内規定で乗客の等級を厳密に主張励行されたため、30〜40坪の日陰のないデッキに50脚以上の椅子を並べて炎天下に転寝をむさぼる航海だった。総じて大洋丸の幹部諸公は一行に冷淡な印象を与えた。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p275)

昭和7年(1932)
○船上でのトレーニング状況を各種目別に記載。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p306)

昭和7年(1932)
○海洋丸便り、勝つまではお菓子廃止、女子選手の意気込み
(「東京朝日新聞 16595」 1932.7.9日刊 ノンブル不明)


昭和7年(1932)
○横浜解纜からロサンゼルス到着までの選手団の行動を、『アサヒ・スポーツ』掲載の船中通信により紹介。7月1日:朝6時、船員が洗浄した水だらけの甲板の上を、お下げ髪に水兵服の女子選手が一人で足の練習。他の誰もがまだ起きない早朝に一人精進しているのは女子水泳トップの前畑嬢。レスリングの加瀬5段などが駆け足を始める。6時半になると拳闘のファイトマネジャーに率いられた5選手がデッキ回りの練習、特に亀岡選手の熱心さが目立つ。その他選手も思い思いの練習を行い、7時には朝食。AKの3アナウンサーはラジオ体操を聞くためラジオ前に集合。この日、空はやや曇ってはいるが波は穏やか。船は横浜から350海里。時速16海里でロサンゼルスに向かっている。7月8日:船は南に3000海里航行。暑さが加わり時に驟雨のため練習が妨げられる。女子陸上競争チームはバトンのタッチに村岡・柴田の2嬢が進境を示す。女子陸上競技選手は五輪で勝つまで菓子断ちを決定。女子水泳では前畑嬢が200mブレストで、短いプールながら2分59秒のタイムを出した。(甲板での集合写真2枚あり:全員、レスリングチーム)
(「第十回オリンピツク大寫眞帖」 帝国公民教育協会 1932 p14)


昭和7年(1932)
○田中英光は大正2年1月10日、東京都赤坂区榎町5番地で、父岩崎英重、母斉(ひとし)の次男として生まれた。長姉英子(たかこ)、長男英恭(ひでやす)、次姉珠子の兄姉があった。大正8年、渋谷区加計塚小学校に入学、9年一家が神奈川県鎌倉町字姥ケ谷に転居、英光は鎌倉小学校へ転校。大正14年4月、県立湘南中学校入学。父英重は大正15年5月死去。英光、昭和5年3月中学卒業、4月早大第2高等学院入学。昭和5年一家は渋谷区伊達28に移る。英光昭和7年学院卒業、4月早大政経学部入学。英光本籍は高知市宝永町84番地で母の出身地。父は土佐郡土佐山村菖蒲の産。大洋丸船中で高知県出身と知ったのが相良八重は当時、高知市東種崎町(八幡通り角)でサガラ薬局を経営していた相良善吾の2女で、昭和7年3月土佐高等女学校(現、土佐女子高校)を卒業、東京女子体専に在学中。走高跳1米47。165糎8の均整のとれた体、円らな目・ちんまりした鼻・ちじれ毛の可愛い顔がよく調和し魅力的な女性であった。
(「土佐の近代文学者者たち」 土佐出版社 1987 p91 岡林清水)

昭和7年(1932)
○9日、大洋丸は、オリンピック日本選手第2軍76名を乗せ、在留邦人の歓呼に迎えられて寄港した。
(「布哇年鑑 1933-34年」 日布時事社 1933 p25)

昭和7年(1932)
○7月11日、大洋丸の今村次吉氏(顧問)宛て、沢田理事より打電。「市の補助金2万5千円、13日市会にて可決の筈、直ぐ貰う積り」
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p326)


昭和7年(1932)
○7月15日午前2時半、サンフランシスコ金門湾入港、4時20分日本郵船桟橋第34号に繋船、市中行進後、総領事官邸の歓迎会。7時半からハインク女史の君が代独唱を聴き船中に宿泊。16日ボートはカリフォルニア大学で軽い練習。17日は神奈川県人会。18日午前7時、ロサンゼルス外港サンペドロへ入港した。
(「田中英光全集 11」 芳賀書店 1965 p443 林清司)

昭和7年(1932)
○7月9日、オリンピック日本選手第2軍76名在留民の歓呼に迎えられて大洋丸で寄港した。
(「布哇年鑑1932-33年度」 日布時事社 1932 p36)

昭和7年(1932)
○一行が携帯する荷物の処置。往路第1船で会長の荷物1個紛失、以後は特に警戒し、往路第2船と帰路全員の荷物は問題なかった。ただし、往路第2船のロス上陸の際、かねて開封しないと約束されていた一行の荷物が、税関吏により大半開封を命じられ、交渉して先方が了解した頃には大部分の開封検査が終了していた。米国側は酒類を食料として携帯する場合は許可する方針であったが、日本監督団は独自に酒類の不携帯を決めた。ところが日本選手の酒類携帯が新聞に報道されたため、税関として職責上黙過できないとなった。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p276)


昭和7年(1932)
○カブ・フイニステレはハンブルク南アメリカ・ラインの南米航路用客船で、明治44年完成当時は同社のフラッグシップでもあった。デッキ吹抜けにした大食堂、最上階にある大理石張りのプールなど豪華だったが、トップヘビーで試運転のあと手が入れられた船だった。日本にきて復元性への懸念から引受手がなかったが、その豪華さからTKKが桑港航路で、大洋丸と改名して運航することになった。アンチ・ローリング・タンクをはずして、固定バラストを積む改装をすませ、大正10年5月長崎から香港への最初の航海に出た時は、浅野社長が乗込み安全性を宣伝した。TKKは天洋丸、春洋丸、大洋丸、さいべりや丸、これあ丸の老朽船5隻を何とか16ノットの航海速度で運航して外国船に対抗したが、大正13年米国の移民割当法(排日移民法)で日本移民が激減し、経営状態が悪化した。代替船建造の許可を政府に訴え、井上準之助に懇願していた浅野社長であったが、処女航海で同船してくれた同郷の後援者安田善次郎を、航海直後の大正10年9月に失って、新船建造も夢となり、大正13年は大洋丸と自社船8隻、桑港航路と南米西岸航路営業権の一切をNYKに譲り、北太平洋定期客船航路から消えていった。大洋丸はNYKに移籍してからも北太平洋航路を走り続け、昭和14年大連航路に移った。太平洋戦争では陸軍に徴用され昭和17年九州沖の男女群島付近で米潜水艦の雷撃により800人の犠牲者と共に一生を終った。田中英光の「オリンボスの果実」は大洋丸で昭和7年のロサンゼルス・オリンピックに遠征する日本選手団の物語で、明るい話題の少ない大洋丸の華やかな一時であった。
(「北太平洋定期客船史」 出版共同社 1994 p166−167 三浦昭男)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:44| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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