2015年03月17日

昭和8年(1933)

昭和8年(1933)
○1月29日、金沢駅前東洋軒で金沢の方々と茶を飲み、支那そば、酒もくむ。吹雪のなか7時15分発急行に乗車。30日午前7時に上野着。出迎え東京の友人に混じりメーソン氏。午前中武雄が郵船に行き切符を買った。暁烏のは大洋丸1等221号室1500円、武雄のはツーリスト65号室590円、離れて不便だが10日間に500円もうかると武雄分を節約した。
(「暁烏敏全集3−3」 香草舎 1960 p508)

昭和8年(1933)
○1月31日、上野駅から電車で横浜桜木町についたのは午前10時半頃だった。直ちに大谷派別院で送別の宴が開かれた。2時大洋丸に乗り込んだが、沢山の人が見送られた。中村君がデッキで皆の撮影をしてくれられた。かくて大洋丸は3時に錨をあげた。今度は武雄が同行するので、テープを持ってデッキにたっても淋しい気がしなかった。船中では毎夜活動写真があり、6日の夜は演劇会があった。屋上庭園に小鳥の声は聞こえる。万事行届いて天上界のような生活である。
(「暁烏敏全集3−3」 香草舎 1960 p509)

昭和8年(1933)
○ハワイ旅行は、1月30日に発って、4月29日に帰る約3箇月の講演行脚である。招待の責任者はヒロの泉原寛海回教使で、その女婿である暁烏武雄を随行に指名してきた。ハワイ4島を巡講するのである。大洋丸に乗って3日目即ち2月2日船中に電報が来た。台湾開教監督木下方渓から10月台湾全島にわたっての巡講依頼の電話であった。承諾の返電をし、整っている昭和8年の予定変更を家信した。
(「暁烏敏伝」 大和書房 1974 p542 野本永久)

昭和8年(1933)
○2月9日、横浜よりの大洋丸で暁烏敏氏、来布。
(「布哇年鑑1934-35年度」 日布時事社 1934 p27)

昭和8年(1933)
○4月11日、横浜よりの大洋丸で暁烏敏氏来布。13年振りに日本ビールが到着した。
(「布哇年鑑1934-35年度」 日布時事社 1934 p27-133)

昭和8年(1933)
○10月5日、本派本願寺布哇別院新総長足利瑞義、郵船ホノルル出張所長蘆野正、横浜サムライ商会主野村洋三の諸氏横浜より大洋丸で来布。
出典?

昭和8年(1933)
○10月25日、桑港よりの大洋丸で日本労働組合連合委員長坂本孝三郎氏や南米に遠征した日本陸上選手団寄港。
出典?

昭和8年(1933)
○10月25日、桑港よりの大洋丸で日本労働組合連合委員長坂本孝三郎氏ならびに南米に遠征した日本陸上選手団が寄港。12月2日、税金を払った酒類の布哇輸入に対し、干渉せずと合衆国地方検事発表す。禁酒撤廃を見越し、米大陸行きの日本酒を積んだ大洋丸が寄港。
(「布哇年鑑1934-35年度」日布時事社 1934 p27-133)

昭和8年(1933)
○12月20日、桑港よりの大洋丸で経済評論家高橋亀吉氏が寄港。ヌアヌ青年会で講演。昭和9年2月10日、横浜よりの大洋丸で日本神道研究家J・メーソン氏夫妻、桑港よりの大洋丸で故国へ飛躍する飛行士東善作、ユニバーサル映画社撮影技師三村明氏寄港。日本人基督教婦人会が拠出の函館罹災者への慰問品を大洋丸で積出。
(「布哇年鑑1934-35年度」 日布時事社 1934 p27-133)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:45| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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