2015年03月17日

昭和9・10年(1934〜35)

昭和9年(1934)
○4月26日、桑港よりの大洋丸で故国へ飛躍する飛行士東善作氏寄港。
(「布哇年鑑 1934-35」 日布時事社 1936 p38)

昭和9年(1934)
○日米の学生が自由に意見を交換し、相互理解を深めて両国の関係改善を目指そうと日本の学生が提唱した。これに応じて米国から約百人が日枝丸や大洋丸に分乗して来日、第1回が青山学院で開催された。
(「日本経済新聞 42630」 2004.9.9日刊 p44 山本東生)

昭和10年(1935)
○5月、本校の修学旅行は、大正13年の第3回目から、往路または復路のいずれかを日本郵船の1等船室を借りきって横浜から神戸までの豪家な船旅にあてるという方法がとられた。すべてにわたって第一であらねばならぬとした当時の吉川校長の心意気の表われであろうか。そこでは、同船の外国人との交際や洋食のマナーの習得なども出来た。客船を利用した修学旅行は昭和12年の秩父丸(往路)をもって打ち切られた。なを、本校が利用した主な客船は次の通りである。サイベリヤ丸(大正13・14年、昭和4年) 鹿島丸(大正15年・前班) 香取丸(大正15年・後班、昭和6年・復路) 伏見丸(昭和5、7年)大洋丸(昭和3年、8−11年)
(「百年史」 東京都立白鴎高等学校 1989 p59)

昭和10年(1935)
○5月、第5学年近畿地方修学旅行日程表。5月7日(日)東京駅(発)午前8時30分、省線で桜木町(着)午前9時15分、京浜線で横浜港(発)正午、大洋丸、汽船内部、船中。5月8日(水)神戸港(着)正午、神戸港(発)午後0時30分、自動車、湊川神社、大阪城、大阪(発)午後4時30分大軌電鉄[以下略]、横浜港から出帆昭和10年5月7日大洋丸写真(p70)、大洋丸の絵ハガキ、和紙で立派、記念に何種類かいただいた、図版(p71)、メニューカバー、メニュー、図版、大洋丸写真
(「百年史 写真集」 東京都立白鴎高等学校 1989 p70−71)

昭和10年(1935)
○8月、横浜からサンフランシスコに向かう大洋丸の甲板で、陸軍軍人辰巳栄一は不思議な日本人に出会った。彼白洲次郎はその年の2月26日に起きた皇道派青年将校暴走をしんから怒っていた。その後大洋丸のデッキチエアに、辰巳と白洲が坐り、語り合う姿が、しばしば見られた。
(「風の男−白洲次郎」 新潮社 1997 p7-10 青柳恵介)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:53| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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