2015年03月17日

昭和11〜13年(1936〜38)

昭和11年(1936)
〇7月、太平洋問題調査会(IPR)が、総会を米国のヨセミテで開き、日本代表は石井菊次郎子爵を団長に、芳沢謙吉氏、国際司法で有名な山川端夫博士のほか、鶴見祐輔氏などが団員で、私は住友から加わった。7月上旬、神戸を出発し、代表団一行と横浜で落ち合い、日本郵船の大洋丸でサンフランシスコに向かった。
(「一銀行家の回想」 図書出版社 1990 p36 大島堅造)

昭和11年(1936)
○ニューヨークに本部のある太平洋問題調査会(IPR)は、日米加など太平洋沿岸国+英仏等の国際機構、民間団体で政府関与なし。1936(昭和11)年米国加州の国立公園ヨセミテで総会があり、日本代表団の一人として一行に加わった。団長は国際私法の大家山川博士が選ばれ、団員は元外相芳沢謙吉氏、鶴見祐輔君、上田東京商大学長、高橋亀吉君ら。秘書は東京からは西園寺公一君、米国からはプリンストン大学で勉強している近衛文隆君、米国留学中の松方春子さん姉妹たち。日本代表団は同年7月29日日本郵船の大洋丸で横浜を出発、8月14〜29日をヨセミテで暮らした。
(「一銀行家の回想」 図書出版社 1990 p167 大島堅造)

昭和12年(1937)
○4月3日、横浜よりの大洋丸で日本のデ杯選手山岸二郎、中野文照、新傾向俳句の萩原井泉水氏來布。6月29日、桑港よりの大洋丸で日本行観光団13組寄港。8月9日、横浜よりの大洋丸で近衛秀麿子、PCLスター澤蘭子寄港。9月24日、横浜よりの大洋丸で近衛文麿君寄港、ハワイ大学教授として日本文化史講座担当の木村正治博士來布。10月13日、桑港よりの大洋丸第6回世界一周実業団員一行26名寄港、また同船で皇軍慰問袋1万275袋発送さる。
(「布哇年鑑1939年度」 日布時事社 1938 p36-41)

昭和12年(1937)
○6月、世情が学問への専念を許さないまま、昭和11−12年の間、日中問題の執筆活動に忙しかったが、学位論文のため昭和12年の夏休みには日本に一時帰国して、学界の新しい動向の吸収に集中したいと思い、4月早々太平洋横断船便の予約にとりかかった。どういうわけか、その年の日本行のNYKは満杯状態で、希望通りの旅程が組めず、ようやく私は6月23日桑港出帆の大洋丸に空床をとることができた。
(「いくつもの岐路を回顧して」 岩波書店 2001 p152 都留重人)

昭和12年(1937)
4月15日、本庄栄治郎は郵船箱根丸の船客となって神戸を発し、5月23日にマルセイユに上陸し、ベルリンに本拠を置いて欧州大陸各地を旅行し、英国を経て米国に渡り、10月7日桑港出帆の「大洋丸」で同月24日横浜に帰着した。
(「本庄栄治郎著作集 10」 清文堂 1973 p370)

昭和12年(1937)
○10月4-26日、キャビン・クラス(一等)羅府より遠藤福太郎(桐材問屋)ほか11名。桑港より青木定雄(明治製菓技術員)ほか51名。ツーリスト・クラス(二等)羅府より千葉益子(美容術)ほか10名。桑港より浅見文吉(浅見文林堂社長)ほか11名。サード・クラス(三等)は名前の記載なし138名。乗客総数273名。乗組員257名。合計530名。
(「御乗船記念芳名録 大洋丸62次復航」日本郵船1937.10.26 17p 198×130)

昭和13年(1938)
○1月21日、横浜よりの大洋丸小原国芳氏らの国民外交団、活花の押川如水女史、鳩山一郎氏夫人来布。
(「布哇年鑑1939年度」 日布時事社 1938 p42-48)

昭和13年(1938)
○3月、卒業を前にして修学旅行で関西方面に行ったんですけど、横浜から神戸まで大洋丸という汽船でいったんですよ。その船に、上海まで行くアメリカ人の方が大勢乗っていらして、アメリカ映画「椿姫」を見せてもらいました。椿姫の役は、たしかグレタ・ガルボでした。外国の娼婦の話でしょう。とても印象に残りました。
(「吉原はこんな所でございました」 主婦と生活社 1986 p101 福田利子)

年?
内容?
(「深川 122」 クリオ・プロジェクト 1998 p15 枝川公一)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:54| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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