2015年03月17日

昭和14・15年(1939〜40)

昭和14年(1939)
○戦前期の主要航路は太平洋航路の逓信省命令航路として、シャトル線とサンフランシスコ線がある。そのシスコ線には、浅間丸、龍田丸、鎌倉丸、そして大洋丸の4隻、2週に1回の就航である。シスコ線の寄港地をあげる。香港→上海→神戸→清水→横浜→ホノルル→サンフランシスコ→ロサンゼルス→サンフランシスコ→ホノルル→横浜→神戸→上海→香港、である。これは昭和4年からロサンゼルスが起終点となる。16年7月休航となる。
(「日本郵船百年史資料」日本郵船1988 p732)

昭和14年(1939)
○10月、日本郵船は、桑港線から大洋丸を撤退させて、浅間丸型3隻としたが、昭和15年4月、新造船新田丸、次に八幡丸を就航し5隻で2週1回の定期航海を実施した。
(「七十年史」 日本郵船 1956 p278)

昭和15年(1940)
○5月23日、「輝ク」には誰もが寄り集つたが、長谷川時雨もまた誰をも公平に扱つていた。慰問文集によって軍との絆が強まると、こんどは軍から戦地慰問の話がもちかけられた。すぐに希望者がでた。輝ク部隊は渡支慰問班を企画する。すでに従軍を経験している吉屋信子、林芙美子、長谷川春子らの話から、陸軍の従軍はきついが、海軍は飛行機や自動車をふんだんに使ってくれるし、それに待遇も佐官級以上の扱いをしてくれるので、女の身にも耐えられると知っていた。海軍の支援のもとに第1回の中南支方面慰問団が結成され、長谷川春子、井上篤子、娘の井上寿子、黒田米子、大田洋子、それに音曲舞踊班として、杵屋六知之、彭城秀子、鶴田桜玉、藤間勘園が輝ク部隊から派遣されることになった。水交社での壮行会、宮城、明治神宮参拝のあと、5月22日東京駅を出発、時雨を先頭に、隊員が輝ク部隊の黄色のたすきを掛け小旗をうちふって盛大に見送る。一行は23日、大洋丸に乗船し、上海、漢ロヘ向かった。前線と病院をまわり、多いときには日に3度の講演と慰問をこなすという、1か月の忙しい旅だった。行く先々から兵士の礼状が送られてくる。「輝ク」6、7月号の紙上に掲載。7月号には黒田米子、井上篤子の帰国報告と、戦地から兵士が寄せた慰問のお礼が載る。8月号に長谷川春子の文が載った。
(「女人しぐれ」 講談社 2001 p279 平山寿三郎)

昭和15年(1940)
○5月23日、大洋丸はいま鳴門海峡をすぎました。今夜は満月の筈で皆たのしみにしていましたが、濃い桃色の陽が沈む頃から薄曇り、夜に入ると空も海も真黒になりました。しかし波は高くありません。この船は豪華ではなく、ドイツの技術の匂いがじかに来るほど、堅牢重厚なものです。このドイツ人の造った巨船の中で、ドイツ人は落ち着いた顔色、英仏人は沈んだ表情。食堂などでありありとそれが感じとられます。
(「輝ク 8.4.85」 1940 p1 大田洋子)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:55| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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