2015年03月17日

昭和16年(1941)

昭和16年(1941)
○開戦前夜の日本の北太平洋航路。日本は英国・米国に次ぐ世界第3位の船腹量を維持してきたが、1939年に起こった第二次世界大戦のため、世界に張り巡らされた日本の定期航路はこの年から翌年にかけ次々に閉鎖されていった。1930年代後半の北太平洋航路は、サンフランシスコ航路では浅間丸・秩父丸(1939年1月鎌倉丸と改名)・龍田丸・大洋丸と新鋭船を主体にそれぞれ2週に1便の定期を張り、華やかな客船黄金時代の真っ盛りであった。37年7月の本格的日中戦争の勃発から41年7月の南部仏領インドシナへの進駐にいたり、日本と英米の関係は決定的に悪化、ついに41年7〜8月にかけ北太平洋の架け橋が消えた。龍田丸・氷川丸・大洋丸はこのあと10月、引揚者輸送のため米国に行くが、これは定期航路ではない。また龍田丸が太平洋戦争開戦直前に米国に向け横浜を発った航海は、開戦を隠す偽装航海といわれた。このようにして太平洋戦争開戦の前夜には、北太平洋に活躍したほとんどの日本船は祖国に帰り、開戦準備に入っていた。
(「北太平洋定期客船史」 出版協同社 1994 p195-196 三浦昭男)


昭和16年(1941)
○太平洋横断旅客船の今昔18、引揚帰国者の輸送。第二次世界大戦勃発後も米国は中立を保ち、太平洋横断旅客船も平穏な航海を続けていた。しかし1941(昭和16)年7月ともなると、浅間丸がマニラから蘭領インド・バダビアに差し立てられ、当時抑留されていた独乙人婦女子および独乙外交官等6百余名を搭載、上海・長崎・神戸へ輸送したのをはじめとして、引揚帰国者の輸送が相次いだ。9月から11月にかけ、北米方面へは龍田丸・氷川丸・大洋丸が、内地引揚邦人輸送のために配船された。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p21 高久虔一)


昭和16年(1941)
○6月2日、徳永太郎は在スイス日本公使館3等書記官に任ぜられたが、独ソ戦でシベリア経由を断念、浅間丸で妻と横浜を出航、ところが米国の在米日本資産凍結で、浅間丸は横浜に帰港。しかし徳永は欧州赴任を果たすため、日米の政府間協定により運航の政府御用船「大洋丸」で10月20日横浜出航、11月1日ホノルル到着。数日後、米国船で桑港へ、大陸横断鉄道でニューヨーク到着。11月下旬出航、12月上旬リスボンに到着。マドリードから鉄道で12月8日、日米開戦の日、ベルン着。駐スイス公使は三谷隆信であった。
(「日本・欧米間、戦時下の旅」淡交社2005 p89 泉孝英)

昭和16年(1941)
○8月、太平洋航路閉鎖により、人と物資が滞留したので、日本政府は米国政府と交渉し、各自国への引揚者を輸送することになった。10月に政府は日本郵船の3隻を傭船、日本郵船旗を降ろし、煙突を黒塗り郵船マークも消した政府御用船を米国に派遣した。第一便龍田丸10月15日、第二便氷川丸10月20日、第三便「大洋丸」は10月20日、米国への船客361名で横浜出航、11月1日ホノルル着、日本への船客456名で5日出航、17日横浜に帰港。
(「日本・欧米間、戦時下の旅」淡交社2005 p95 泉孝英)

昭和16年(1941)
○11月1日にホノルル入りした大洋丸船内で、ハワイ領事書記生として軍令部からひそかに派遣されていた予備役吉川猛夫少尉が、二人にそれまでの諜報活動の成果を伝えた。翌2日の日曜日、鈴木少佐は真珠湾に浮かぶ米戦艦、駆逐艦、巡洋艦の数や位置に目をこらした。米艦隊が休息日にハワイのどこに集結しているかを把握することは、鈴木少佐に課せられた重要な任務だった。
(「企業戦士たちの太平洋戦争」 社会思想社 1993 plO 小田桐 誠)

昭和16年(1941)
○11月1日、大洋丸から下船の、軍令部の使いが持ってきた97項目の質問状には、ハワイの気象条件が、質問してあった。私は、ハワイには暴風雨なし。オアフ島の北側は曇天多し。北側よりヌアヌパリを通り、急降下爆撃が可能である、と回答した。
(「東の風、雨」講談社 1943 p64 吉川猛夫)

昭和16年(1941)
○11月4日午後5時、大洋丸の出港予定だったが、帰国する日本人447名に対する調査がきびしく、女性でも裸身にされて検査される者がいた。出港は翌5日に延期され、乗務員も厳重な身体検査をされたので、鈴木たちは自分たちの行動が察知されたかと不安だった。ようやく翌5日午後7時半になって出港許可がおりたが、明るいうちに出港させると真珠湾を盗み見られることを恐れた米軍の配慮にちがいなかった。
(「大本営が震えた日」 新潮文庫 1981 p282 吉村 昭)

昭和16年(1941)
○11月4日、出港の予定だった大洋丸は、入港が1日おくれたのとホノルルからの引き揚げ邦人の数が予想以上に多かったので、出港が1日延期され、5日の日曜日午後3時と決められた。米当局は乗客検査を厳重入念に行い、結局出港は午後7時半になった。ホノルルからの乗客の中には、松尾敬宇中尉もいた。
(「週刊読売 34.24」 1975.6 p72 鈴木 英)

昭和16年(1941)
○予定より1日遅れの11月5日夜、ハワイの在留邦人、日系2世147人を乗せた大洋丸はホノルルを出発し、17日朝、横浜港に投錨した。で大洋丸が帰航途中の15日、同じ日本郵船所属富士丸は、政府命令を受け、蘭印在住民間人最後の引き揚げ船として1800人を収容し、連合国側の包囲網を脱する。大洋丸の方は翌昭和17年5月、民間企業戦士を乗せて、はじめて南方産業開拓のために出航する船となる。
(「企業戦士たちの太平洋戦争」社会思想社 1993 pll 小田桐 誠)

昭和16年(1941)
○横浜に向かう大洋丸の船中で、鈴木英は日本への帰国を選んだ2世と親しくなった。一緒に酒を飲むうち、鈴木はライハナには船が一隻もないことを知った。これは吉川猛夫が知らなかった情報だが、12月8日機動部隊は飛行機を真珠湾に集中できた。
(「日本国ハワイ」 恒文社 1984 p138 JJステファン)

昭和16年(1941)
○大洋丸に帰国のため乗船してきた広島県出身の満岡豊蔵という男は、ラハイナにあるアメリカ人経営の砂糖会社の社員としてラハイナに34年間も住んでいたという。彼の話では、ラハイナ泊地には今年4,5月以後潜水艦以外の船は入港せず、補給施設も貧弱で、アメリカ艦隊が在泊する港湾設備は整っていないらしい。鈴木少佐は、アメリカ艦隊の集結地は、真珠湾以外にないと断定した。
(「大本営が震えた日」 新潮文庫 1981 p280 吉村 昭)

昭和16年(1941)
○11日17日、松尾敬宇中尉は初め特潜艇員として、真珠湾攻撃に参加するはずであったが、「大洋丸」の帰着が遅れたため、別の搭乗員に決定した。
(「決戦特殊潜航艇」朝日ソノラマ 1984.9 p45 佐々木半九)

昭和16年(1941)
○10月15日、私は新田丸で無事3等事務員を卒業でき、いよいよ首席事務員に昇格した。そしてシャトル航路の平安丸へ神戸で乗船、ところが、急に社命下船大洋丸へ転船の指示が来た。引き継ぎは無く10月11日下船、横浜へ東海道線で陸行、10月15日大洋丸に乗船したが、こんな配乗指示は前例がない。ホノルルへの入出港・税関・移民官などの関係事務を、私の新田丸での最新経験でこなせと、ただ一人引き抜かれて転船したのだった。事務室の他の全員が北米航路を知らない者ばかり、船は政府の徴用船であるので、社旗は掲揚せず、煙突の二引のマーク、白地に赤二線引きのファンネル・マークも、黒色に塗沫、特殊な配船との空気は、船内に満ち満ちている。私自身これがまさか太平洋戦争への最後の配船だとは夢にも思わなかった。臨時船大洋丸は、米国への帰国者447名を乗せ横浜を出港。ホノルルで乗客全員を降ろし、下船者は米国船でシスコ、ロスへ送られた。大洋丸はホノルルへ11月1日到着し、11月5出帆したが、帰路は日本への帰国者301名を乗せていた。
(「豪華客船のドラと共に」 中之島プリント 1985 p242-256 二口一雄)

昭和16年(1941)
○ハワイ攻撃作戦については連合艦隊の上層指揮官の中にも反対が強かったが、山本連合艦隊司令長官の強い意向で実施が決定され、昭和16年10月19日、軍令部総長は正式に決裁を与えた。この決定に先立ち日本海軍は、ハワイ現地偵察、諜報作戦を実施した。7月南支那海で沿岸封鎖中の鈴木英少佐は、ハワイ現地偵察を命ぜられた。少佐は潜水学校教官前島寿英中佐と共に、10月22日横浜を出る大洋丸に乗船した。
(「写真太平洋戦争1」 光人社 1995 p12 梅野和夫)

昭和16年(1941)
○昭和16年7月、当時第三艦隊参謀であった私は、東京転任を命じられた。開戦近い切迫した時期の陸上(人事局)勤務は不満だったが、9月下旬に軍令部第一部の立花少佐に呼ばれ、ハワイ軍港のスパイを命じられた。すでに日米両国は通商閉鎖状態で船の往来がなかったが、日本郵船の大洋丸が在日米国人の帰国のためハワイに向かう予定で、私はこの船に郵船本社の派遣事務員に化けて乗り込むことになった。また潜水艦の専門家である前島中佐が船医に化けて乗った。私たちの身分を知っていたのは、船長、事務長に船医、その他二三名の高級船員だけだった。船は10月20日午後横浜を出港。米本国に帰る数百名のアメリカ人たちが家族と共に乗っていた。進路を北にとって択捉島近くまで北上、それから東に向かったが、これは船長に対して海軍側から要請された航路で、後で思えばハワイ空襲部隊の航路にあたる。風向、気圧、船の動揺、給油予定地点を調べた。船が東進しアリューシャン群島とミッドウェー島とを結ぶ線の中間を過ぎ、東経165度あたりから南に下ってハワイ島を目指す頃になると、海は凪いできた。当時は米ソの輸送船がこの航路の近くを通っていると思われていたのに、航行中に一隻の船にも遭遇しないことは私を喜ばせた。これなら我が機動部隊は隠密のうちにハワイに肉薄できる。10月末の北洋は寒かった。今度の航海はやけに北を通るものだと船員たちも不思議そうに語っていた。曇天ながら14mの風が吹き、15000トンの大洋丸が10度も傾くほどだった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p24-25 鈴木英)


昭和16年(1941)
○大洋丸はオアフ島の北方、約200マイルで米軍の哨戒機につかまった。哨戒機は頭上を旋回。船が100マイル地点まで近接すると、米軍機が編隊を組んで近づき、大洋丸を目標に急降下し、擬襲をおこなった。なかなか上手だぞ、 私は船橋から、米軍の演習ぶりを眺めた。大洋丸に幸運が訪れた。米側は大洋丸を桟橋の一番外側、つまり真珠湾に一番近いところに接岸させた。何という幸運!真珠湾が丸見えではないか! それに大洋丸は古い大型船でデッキが高く、万事に都合がよかった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p25 鈴木英)

昭和16年(1941)
○11月1日未明、大洋丸はオアフ島の北方、約200マイルで米軍の哨戒機につかまった。哨戒機は頭上を旋回して南に去った。船が100マイル地点まで近接すると、米軍機が編隊を組んで近づき、大洋丸を目標に急降下し擬襲をおこなった。私は船橋から米軍の演習ぶりを眺め、なかなか上手だぞと思った。米軍の防禦戦法を「200マイルが哨戒線、100マイルで攻撃か」と判定しながら、私は敵の演習ぶりを視察し続けた。日本海軍の航空専門家が乗っているとも知らず、手の内を見せてくれるわい。それにしても一体日米は戦うであろうか。警戒は想像以上に厳重で、ホノルル港外で士官以下10名の米海兵が乗り込んできた。彼らのうち誰一人神経を尖らせている者はいなかった。ホノルルの港内を目指し微速で進んでいる大洋丸を、古い型の日本商船と軽視したのだろう。飛行機の哨戒ぶり・それに伴う編隊の擬襲・先ほど見た防潜網は、非常に厳しい警戒を始めていることを示すが、話しぶりではまだ一般の兵士にまでは及んでいないようだと思った。米側は大洋丸を桟橋の一番外側、つまり真珠湾に一番近いところに接岸させた。何という幸運、真珠湾が丸見えだ。船橋に立てば真珠湾を出入りする米艦艇が手に取るように見え、ロージャース、ヒッカム両飛行場、フォード島も指呼の間だった。大洋丸が古い大型船でデッキが高いのも、万事に都合がよかった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p25-26 鈴木英)


昭和16年(1941)
○こんなよい桟橋に大洋丸をつけたのは無気味であった。大洋丸の真横にイギリス駆逐艦が碇をおろしており、これで我々を監視するのかと前島中佐と私は語り合った。陸へ上がった船員には尾行がつくということで陸上での連絡は不可能に思え、一切の情報収集は船内でやることにした。船長室と弦門に直通電話を引いて高級船員に弦門を監視させるなど、盗聴防止にも十分注意した。これだけの準備をしてからホノルル領事館北(ママ)総領事に私の身分を打ち明けた。領事館からは在留日本人の引揚げ乗船の手続きで、頻繁に大洋丸に連絡が来る。その都度、領事館員を船長室に招いて、私は真珠湾軍港の情報を聞いた。話を聞いては船橋に行き、直接に目で確かめる。2日になって、日本潜水艦が真珠湾口に現れたと新聞に報道された。警戒が厳しくなりかねないので、ここで一切書き物を残さない方針を決めた。ところが領事館員は軍事専門家ではないので、すべてを記憶するというわけにはいかない。領事館から船に毎朝新聞が届いたが、この中にメモが挟んであった。米国税関の検査は、当方が積極的に新聞の端をパラパラと見せるとすぐOKになった。紙片に書かれた米艦艇の入港日時・隻数などは片端から記憶し、紙片は焼き捨てた。日本海軍が張っていた情報網からも領事館に情報が集まっていた。10月21日(大洋丸入港10日前)撮影の真珠湾の空中写真も届いた。末端のスパイと一切接触はせず、船の上で情報を総合することに努めた。大洋丸の甲板を歩きながら、私は丸見えの真珠湾を見直した。戦艦8・空母3・甲巡11など、私の推算は正確で、戦後に米国側で大きな問題になったほどだった。私は大洋丸の船上でこの数字を出すと、何度も何度も検討を繰り返した。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p26-27 鈴木英)


昭和16年(1941)
○ホノルル出港は4日午後の予定だったが、私は船長に明日5日の真珠湾が見たいと頼んだ。船長は理由を聞かず引き受けてくれた。積み荷作業が意識的に遅らされたが、荷役が1日くらい遅れて出航が延びるのは商船では珍しいことでもないらしく、米国側もそれほど注意を払わなかった。5日(日)早朝、私はとび起きると船橋から真珠湾を眺めた。わざわざ出港を延期させて日曜朝の真珠湾を見た理由は、真珠湾奇襲は「やるなら日曜」とすでに計画があったからだ。週末で泊地に帰投した軍艦はフォード島の周辺に思い思いに碇をおろし、軍港は全く静かな休養の朝を迎えていた。これでよし、彼らは日曜は確実に休んでいる。大洋丸は5日夕刻、ホノルルの桟橋を離れた。次第に船足を速めて、オアフ島の姿が遠くなるにつれ、私は大声を上げて喜びたい衝動をどうすることも出来なかった。公海上での米軍艦臨検を警戒して、私は重要なメモを残さなかった。書類のまま持ち帰るものはコヨリによって紐として使い、それも燃やしやすい場所に置いて万が一に備える慎重さだった。帰路は往路より南を走ったが、これも後に機動部隊の帰路となった航路である。大洋丸にはハワイを捨てて故国に帰る日本人一世二世が多数乗っていた。彼らの中には飛行場の格納庫建築に働いた者が多く、この人々から格納庫の屋根の構造なども詳細に聞くことができた。心配した米軍艦の臨検もなく無事11月17日に横浜に帰着、着慣れた事務員服を軍服に着替え、直ちに大本営に報告した。12月8日未明、淵田中佐の発した「奇襲成功」の無電、引き続いて続々と東京に報告されてきた真珠湾軍港壊滅の勝報を、私は海軍省で素知らぬ顔で聞いていた。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p27-28 鈴木英)


昭和16年(1941)
○鈴木英は陸軍大将の息子であり、あの二・二六事件で瀕死の重傷を負った著名な海軍大将鈴木貫太郎侍従長の甥であった。彼の任務は、攻撃目標の正確な位置、使用爆弾の種類、緊急着陸可能な地点を把握だった。
(「大日本帝国の興亡 1」 毎日新聞社 1971 p259 Jトーランド)

昭和16年(1941)
○10月22日午後3時15分、ホノルル行き大洋丸は、横浜の大岸壁をはなれた。鈴木武と称した鈴木英少佐は船員手帖、森山と名乗った前島寿英中佐は船医の免状をもち、月給も船から支給され素性のばれぬよう極力神経がはらわれた。大洋丸は大本営の指示にもとづいて、一般航路からはずれた北方航路を進んだ。鈴木と前島はデッキに出て、やがてこの海面をハワイ奇襲艦隊が航行するのかと、深い感慨にうたれた。
(「大本営が震えた日」 新潮文庫 1981 p275 吉村昭)

昭和16年(1941)
 十月末ごろ、大洋丸船上の軍事オブザーバー二名が精密な気象データを集めた。同船は、ミッドウェーとアリューシャン列島のあいだを東進し、ついで南に向きを変えるという攻撃部隊とまったく同一航路を通って、ホノルルに入港したのである。二人のオブザーバーは、ホノルルに到着後、新たに港内の航空写真を撮り、役に立つ二、三の資料も入手した。たとえば、米艦隊はラハイナには集結しておらず、週末はあいかわらず休暇とレクリエーションで過ごすといったスパイ情報を確認している。
(「パールハーバー」 読売新聞社 1987 p352 Wohlstetter,Roberta)


昭和16年(1941)
○11月1日、大洋丸はホノルルに入港、出入港には海兵隊が10名くらいで検問する。船員が無線電信機の調整をすれば、監視所から直ぐ調査に来る。偵察に上陸すれば、すぐにオートバイが尾行してきた。
(「史観・真珠湾攻撃」 自由アジア社 1955 p188 福留繁)

昭和16年(1941)
○11月1日、ホノルルに入港した大洋丸で、日本大使館の喜多総領事は鈴木英少佐から97項目の質問を書いたコヨリを受け取ったが、その回答は海軍が領事館書記として潜入させた吉川猛夫が一人で書いていた。
(「週刊読売 21.49」 1962 p117 吉田俊雄)

昭和16年(1941)
○11月1日、大洋丸から私に持ってきた、軍令部の97項目の質問状には「ハワイの気象条件如何」とあった。私は次のように回答した。「ハワイには、30年来暴風雨なし。オアフ島の北側は曇天多し。北側より接敵し、ヌアヌパリを通り、急降下爆撃可能なり」。
(「真珠湾スパイの回想−東の風、雨」 講談社 1963 p64 吉川猛夫)

昭和16年(1941)
○11月5日7時30分、大洋丸に漸くホノルル出港許可がおりた。米軍の、帰国日本人に対する荷物調査や、乗務員への身体検査が厳しく、4日午後5時の出港予定が、崩れたのである。大洋丸の横浜入港は、順調にいっても11月17日になる。真珠湾奇襲部隊の呉軍港出撃日は11月18日となっていて、それに間に合うかどうか危ない。得られた情報を先発隊に伝えなければ無駄になってしまう。
(「大本営が震えた日」 新潮文庫 1981 p283 吉村昭)

昭和16年(1941)
○11月5日7時30分、米当局は乗客検査を入念に行い、結局、出港は午後7時半になった。ホノルルからの乗客の中には、真珠湾特別攻撃隊・指揮官付の松尾敬宇中尉もいた。もちろん官姓名は伏せての行動である。午後7時過ぎ、入港時と同様に水先案内人と、10人の海兵隊員が乗り込んだ。その一人に「何のため、こんな警戒厳重にする必要があるのかね」と私がたずねると、彼は「港口に、うようよしている機雷にひっかかって、爆沈すると、困るからさ」と、至極当然の顔で答えてくれた。無事、湾口に出た大洋丸は、警戒兵を退船させ、日本へのコースを走りはじめた。
(「週刊読売 34.24」 1975.6.7 p72 鈴木 英)

昭和16年(1941)
○松尾敬宇は、初め特殊潜行艇搭乗員として、真珠湾攻撃に参加するはずであったが、真珠湾偵察後乗船した大洋丸の横浜到着が遅れたため、別の搭乗員に決定した。
(「決戦特殊潜航艇」 朝日ソノラマ 1984 p45 佐々木半九)

昭和16年(1941)
○9月、野村吉三郎駐米大使は、ハル国務長官に禁輸の緩和を交渉、数週折衝の結果、貨物は積まない条件で日本船三隻の米国行きが同意された。第1船龍田丸軍令部中島湊少佐乗船10月15日横浜出航、山口文次郎大佐からの密書はオアフ島軍事施設兵力調査と地図を要請していた。第2船大洋丸は鈴木英少佐、前島寿英中佐乗船、10月22日横浜出航、奇襲攻撃計画航路をとった。千島列島南から原田敬助船長は東へ、さらにミッドウエー北方1000キロ辺から南東に転じ、南へ進んで西方からホノルルに近づいた。アリューシャン列島からの艦艇に、米国西岸からロシア向けの商船に、ハワイからの哨戒機に出会わないか二人の海軍士官は交代で注意深く水平線を見守った。オアフ島の北方と西方では、奇襲部隊を発見しそうな哨戒機、戦闘機、爆撃機、あるいは潜水艦、商船、漁船に出会わないか、鋭い警戒の目を光らせた。また一日のうち何回も、位置や天候を調べ、視界、風向、風力、海上状況など航空攻撃に必要な資料を集めた。ハワイまでの全航海では、どんな種類の船にも出会わなかった。大洋丸がホノルル港に入り、有名なアロハ塔に近い8号桟橋に係留したのは、11月1日土曜日の午前8時半、それはハワイ攻撃のほぼ予定時刻だったのである。大洋丸は5日停泊、鈴木、前島は上陸せず、喜多総領事が前後3回2人の館員を伴って大洋丸を訪ねた。鈴木は領事館にいて諜報活動をしている吉川書記生宛に長い質問状を書いて総領事に手渡した。質問は米軍の哨戒機の動向、索敵範囲などが中心だった。3日大洋丸はマストに満艦飾旗を掲揚、明治節を祝した。吉川書記生の真珠湾米海軍状況調査結果は、喜多総領事の指示で館員の一人が新聞の束に隠して大洋丸に乗船、両士官に渡された。11月5日水曜日午後7時37分大洋丸は8号岸壁を離れ、南雲機動部隊が帰路に予定のコースをとったが、一隻の船にも出会わず、ミッドウエーでも哨戒機を見ず、諸般の情勢は再び有利と思われた。大洋丸は17日朝、横浜港入港、白雪を頂いた富士山は、大洋丸の入港を歓迎するかのように輝いていた。午後、鈴木少佐と、前島中佐は、軍令部で永野修身総長、伊藤整一次長、福留繁作戦部長、富岡定俊作戦課長を前にハワイの視察報告を行なった。
(「トラトラトラ」 並木書房 2001 p140 Gプランゲ)

昭和16年(1941)
○「昭和16年11月17日、ハワイ方面偵察報告、海軍中佐前島寿英、海軍少佐鈴木 英」の表題がある大洋丸の1航海の報告は、海軍専用の罫紙26枚にぴっしり書かれ、航空関係、空母所在、海水透明度、防潜網の展張状況、気象などを網羅してた。
(「豪華客船の航跡」 成山堂書店 1988 p125 二口一雄)

昭和16年(1941)
○前島中佐、松尾中尉両人は11月17日帰着。直に呉に飛行し、打合せに出席して、湾口では防潜網が張ってあり、ワイヤーを張れば網が展開され、ゆるめれば網が海底につき、艦が通れるようになることなどを報告した。
(「決戦特殊潜航艇」 朝日ソノラマ 1984 p44 佐々木半九)

昭和16年(1941)
○鈴木英少佐は11月17日横浜へ帰着。翌夕刻出港する第三戦隊の比叡に木更津沖で便乗し、千島の単冠湾に至り、11月23日機動部隊に情況を伝えた。
(「史観・真珠湾攻撃」自由アジア社 1955 p189 福留 繁)

昭和16年(1941)
○11月、米国事情を探索した商船は、(1)竜田丸(中島湊海軍少佐・松尾敬宇中尉乗船)横浜発10月15日、23日ホノルル着、サンフランシスコ30日着、2日発、11月14日横浜帰着。(2)氷川丸(軍令部3部福島栄吉少佐乗船)10月20日横浜発、31日バンクーバ着、11月1日シャトル着、4日発、18日横浜着。(3)大洋丸(前島寿英中佐・鈴木英少佐乗船)10月20日横浜発、11月1日ホノルル着、5日発、17日横浜着であった。
(「東の風、雨」 講談社 1943 p72 吉川猛夫)

昭和16年(1941)
10月、日本政府が龍田丸を借り上げ引揚船として桑港まで運航、シャトル、ヴァンクーウバァーまで氷川丸が、ホノルルまで大洋丸が、それぞれ引揚船として運航された。
(「交換船」 新潮社 2006 p272 黒川 創)

昭和16年(1941)
○大洋丸はホノルルで引揚邦人447名を収容し、11月17日横浜に帰港したが、鈴木少佐らが集めた資料のはいったトランクの入手が、退船時の混乱で遅れ、関係部隊に説明のため出発するまでに受け取れなかった。
(「ハワイ作戦」 朝雲新聞社 1967 p297 防衛庁)

昭和16年(1941)
○鈴木少佐は1941年11月邦人引き揚げ船大洋丸に船員として乗り込みホノルルに数日間滞在、船内に留まって真珠湾情報を収集し、後11月17日帰国、戦艦比叡に乗艦してヒトカップ湾へ向かった。
(「そのとき、空母はいなかった」 文芸春秋 2013 p63-64 白松繁)

posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:56| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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