○1月24日、捕獲船「多々良」に乗って黄浦江を下って呉淞沖の揚子江にでた。下江の途中で二隻の巨船に出会った。軍艦と同じ灰色に塗ってはいるが、日本郵船の大洋丸と新田丸で、船上に一杯に乗っているのは、ウエーキ島で捕虜になったアメリカ兵である。食料の不足している日本に収容せず上海につれて来たものに違いない。
(「造船士官の回想 下」 朝日ソノラマ 1994 p23 堀 元美)
昭和17年(1942)
○4月、兄の休暇が終わる日、私は兄を横浜港の船まで送って行った。兄は断ったが、母も強くすすめるから、仕方なさそうに承知した。私は大桟橋に繋留された船、大洋丸が意外に大きいのにびっくりした。船体がすべて灰青色に塗られていたが、元はドイツから来た豪華客船だ、ということだった。兄はその細い鉄階段をいくつも降りた大部屋で、一張羅の私服の詰襟を脱ぎ、白い厨房着をきると、「あとで伊勢佐木町へつれてくから、上で待て」とまた一緒に通路へ出た。私は広い厨房の蔭に立って、十人あまりの厨房員が、忙しなく働くのを眺めていた。その怒鳴るような声と、包丁や皿小鉢が立てる音。おそろしく長い時間なので、私は膝が痛くなった。たぶん三四時間は経ったろう。不意に眼の前の卓上に、ドスンと白い湯気をあげる飯の椀と、肉の煮つけが置かれ、中年の肥った厨房員が、「食べな」とこっちへ無愛想に声をかけた。
(「氷夢」 講談社 1989 p33 田久保英夫)
昭和17年(1942)
○5月4日、八田与一は、手紙で派遣隊が乗船する船、大洋丸について知らせてきた。大洋丸は民間船であるが、当時の民間船は「戦時海運管理要綱」で、50トン以上の鉄鋼船はすべて国家の管理下に置かれており、それらの船舶を一元的に運用する組織とて「船舶運営会」が設立されていた。また、陸軍と海軍が徴用して直接、作戦に参加する船舶があり、陸軍徴用船をA船、海軍徴用船をB船、船舶徴用船の用船をC船と呼んでいた。C船が誕生した経緯は国家総動員法によるもので、国が全船舶の使用権を独占して、船舶運営会に貸与するという形式になっていた。
(「百年ダムを造った男」 時事通信社 1997 p215斎藤充功)
昭和17年(1942)
○4月12日、グレナディア号は、太平洋に配備された56隻の潜水艦の中の一隻で、4月12日第2回作戦行動のため長崎に向けてハワイ真珠湾を出航し、東シナ海に潜行して日本の艦船を探し求めていた。
(「台湾を愛した日本人」 青葉図書 1993 p288 古川勝三)
昭和17年(1942)
○5月5日、岬のかげにやがて巨大な山のような大洋丸があらわれた。甲板が幾層あるだろう、まことに小山のように見える。1万4千5百トンの巨船であるが、甲板室がもう少しあれば、優に1万67千トンにはなる船である。艀が船に近づくにつれて、それはいよいよ見あげるような巨体にふくれて行った。私たちは高い舷梯を大洋丸へとのぼって行った。スチームウインチがごうごうと運転して艀から船倉へ荷物を積み込んでいる。積まれるものは缶詰だ。何千何万何十万というという牛肉の缶詰だ。こんなにも缶詰にするのだから、われわれの口にめったに牛肉がはいらなくなるのはもっともな話だ。次が野菜の缶詰だ。これも何万何十万というおびただしい数であろう。気がつくと船はいつのまにか出帆している。汽笛も鳴らさず、こっそりと行動しているのだ。軍というものはこういうものかとはっきり感じた。
(「中央公論 65.5通号735」 1950 p189 橋本徳寿)
昭和17年(1942)
○5月6日、陸上のホテルでもこれだけの部屋数をもっているホテルはあるまい。一等食堂でも帝国ホテルの大食堂よりも広く、豪華である。一等の娯楽室、喫煙室、サルン、物資ゆたかな時代に独逸で建造されただけあって、よいものを使っている。絨毯も厚い苔を踏むようで、ふかりふかりと靴が入り込む感じがする。しかし、この航海で豪華な部屋は全部三等室にされてしまっている。そこに三等客がふんぞりかえっている。わるい一等室よりも、この仮設三等室の方がよい場合がある。部屋々々をまわって、奇異だったのは、これだけの人数の船に女気がまったくないことであった。考え出すと、ひどく不思議に思われるのだ。前に書いたマレー婦人の黒一点はたしかにあるのだが、あれは女性という感じが全然しないから、問題とするには足りないが、女は仮設三等室の豪華なる部屋の一隅に横になっていた。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣発行所 1964 p10 橋本徳寿)
昭和17年(1942)
○5月5日、岬のかげにやがて巨大な山のような大洋丸があらわれた。甲板が幾層あるだろう、まことに小山のように見える。艀が船に近づくにつれて、それはいよいよ見あげるような巨体にふくれて行った。私たちは高い舷側を大洋へとのぼっていった。ボーイに船室をきくと、あちこちとひっぱりまわされて、結局もとのところへもどってきた。急にふやした船員もあろうし、船の勝手がまだよくわからないのであろう。部屋は2等の222号室、A甲板の右舷よりだ。舷側ではなく、もう一列内側である。舷窓がないから、熱帯圏内にはいったらさぞあつかろう。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣出版社 1964 p6 橋本徳寿)
昭和17年(1942)
○5月5日、大洋丸は南方占領地の経済開発に、一流企業から選抜された1360人を乗せ宇品港を出航、8日午後7時45分長崎県男女群島沖で、米潜水艦発射の魚雷4発が命中し大火災となり撃沈。817名が死去、543名が救助された。岳父金子誠一は当時熱帯文化協会理事で、台湾拓殖・古河鉱業に所属、南方における功績が認められ軍命令に応じたのであった。当日は米軍死守のコレヒドール陥落で、午後6時半1等船客食堂で祝宴があり、その直後の惨事であった。岳父は佐渡育ち、荒海で鍛えた水泳の名手、酒さえ入っていなければ波にさらわれることはなかったろうと思われる。
(「水口敏之遺稿・回想集」新風舎1999 p231)
昭和17年(1942)
○宇品を出てフィリッピンのリンガエンに向かつて直航しつつあった当時の日本有数の巨船大洋丸は、雷撃をうけて暗夜の東シナ海の波間にその姿を没した。同船は、第1次世界大戦の後で連合国側として日本が、吉野丸などと一緒にドイツからとったケープ・フィニスター号の後身であり、重ねがさね悲運の船であった。大洋丸と運命をともにしたのは910余名、生存者は541名。乗務員をのぞいた1100余名は、ほとんど民間人で、日本軍の占領していたフィリッピン、ボルネオ、スマトラ、ジャワ、ビルマの産業開発を推進するためにというので選抜された各界のエキスパートであった。「大洋丸とともに沈む」の筆者橋本徳寿氏は木造船技師として本邦の第一人者であり、また、古泉千樫門下の歌人で、歌集その他著書も多く、短歌雑誌「青垣」の主催者である。船内ではマライ分団第5班の班長であった。「大洋丸とともに沈む」は遭難1カ月後の6月5日に書き上げられ、爾来筐底深く蔵されていたものである。
(「中央公論 65.5通号735」 1950 p188 中央公論編集部)
昭和17年(1942)
○5月7日曇、六連島正午出帆。船列は大洋丸を先頭にして六隻なり。大洋丸に平行して駆逐艦一隻、前方に掃海艇一隻、最後部に掃海艇一隻つけたり」(ジャワ派遣大日本製糖社員関谷博手記)。
(「宝石 10.9」 光文社 1982 p214 高杉晋吾)
昭和17年(1942)
○5月8日、護衛艦なし丸裸船団というのがグレナディア号の艦長が潜望鏡で大洋丸船団を見たときの印象だ。「正午頃、男女群島を左舷に見たり。駆逐艦及び特設砲艦は大洋丸の前方八百米の海上を疎開して航行。午後4乃至5時二隻の護衛艦はいずれも基地に引き返したるものと見えたり」(陸軍省整備局交通課員吉田善三郎少尉手記)
(「宝石 10.9」 光文社 1982 p214 高杉晋吾)
昭和17年(1942)
明44.8建造。大8第一次大戦の賠償船として日本政府が取得。大10.1大洋丸と改名、東洋汽船に運航委託。大15.5N.Y.K.に運行委託。昭4.5.4N.Y.K.に払い下げ。昭17.5.8六連からルソン島リンガエンに向け航行中、長崎県男女群島の南南西85浬(30.45N、127.40E)で米潜グレナディアGrenadier(SS-210)の雷撃を受け沈没。
(「日本郵船船舶100年史」<世界の艦船・別冊> 海人社 1984 p223 木津重俊)
昭和17年(1942)
○5月8日は大詔奉戴日で、船では早い夕食の膳におかしら付きで酒が1本ずつ出された。ちょうど食事が終わったとき、サロンのブザーが不気味な音をたて、「敵襲」と叫ぶ声がスピーカーから飛び出した。私は遠くでドーン、ドーンという、腹にこたえるような2発の爆発音を聞いた。咄嗟に敵潜水艦が出たなと思った。急いで船室に戻り、救命胴衣を着けて上甲板にかけあがってみると、九州の山々と五島列島の島影が5月の夕映えの空をバックにはっきりと見え、はるか水平線上に赤々と燃えて炎を吹きあげている大洋丸の姿を見た。デッキの手すりにつかまって船尾を見た。約100mの距離で難を免れたのであった。大洋丸は停船しているらしく、天をこがす炎が次第に近く見えてきた。18000トンの巨船には、シンガポールに向かう3000人ほどの軍関係者が乗っている。軍需物資も積んでいるはずである。吉野丸はジグザグコースで南に向かっていた。大洋丸の燃える火柱が、爆発音とともに一段と大きくなるのを見た。夜の闇が迫り、五島列島沖の暗い海面にただ一つポツリと光る大洋丸の燃える姿が、船尾の遠くにいつまでも見えていた。家に残してきた妻や母や子供は、もし明朝の新聞に「大洋丸沈没」のニュースが出たら、仏壇に燈明をつけて私の写真を飾ると思った。数日後に台湾の高雄に着くと、上陸する人に頼んで、無事航海をつづけていると家族にハガキで知らせた。大洋丸のことは検閲を考え、1行も書かなかった。そして、日本の領海内に敵の潜水艦が現れ襲撃されるようになったこれからの厳しい戦局を思わずにはいられなかった。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p不明 藤波健彰)
昭和17年(1942)
○5月8日、グレナディア号の艦長、ウイリアム・アッシュホード・レント中佐が、1300米の至近距離から、大洋丸めがけて4発の魚雷の発射したのは、午後7時32分11秒。音響担当者が「すべての魚雷、正常に走行」と報告、7時33分8秒に最初の爆発音が聞こえた。
(「台湾を愛した日本人」 青葉図書 1993 p288 古川勝三)
昭和17年(1942)
○5月8日午後6時52分、米潜水艦グラナディア号は男女群島を南下する船団を認めた。先頭の大型船を大洋丸と確認したのは午後7時、日没前に攻撃すれば、敵機や護衛船の反撃が予想される。日が暮れては、大洋丸を捕捉できない可能性もある。しかし大型船の撃沈は船団に最大の打撃を与えるだろう。グラナディア号のレント艦長は、日没前の攻撃を決断した。4発の魚雷が発射された。
(「企業戦士たちの太平洋戦争」 社会思想社 1993 p223 小田桐誠)
昭和17年(1942)
○要目、徴傭事項、遭難概況、大洋丸遭難者に対する給与の件、遭難顛末書、大洋丸遭難船員の件、大洋丸の件、大洋丸行方不明者戦死確認軍内報許可の件、大洋丸遭難行方不明者戦死確認名簿、大洋丸乗組死体検案書送附の件、大洋丸乗組員戦死者戸籍面抹消に関する件、大洋丸乗組員名簿
(「日本郵船戦時船史資料集」下 日本郵船 1971 p288-298)
昭和17年(1942)
○5月8日、外国航路客船の夕食時間は3等5時、2等は6時、1等は7時、大洋丸はそのルールを守っていた。私は5時からの3等食堂で1人前平らげたが、満足感がなかったので、2等食堂にもぐりこみもう1人前腹に納めた。7時半頃自室に帰る気のないまま2等船室の折り畳み椅子にすわり「ノモンハン戦記」を読み、生死の境は色々あるものだなと考えていたところ、出し抜けの大振動と大音響に床へ叩きつけられ、やられた、と自覚した。
(「まるゑむ 24」 江商社友会 1994 p21 鈴木康平)
昭和17年(1942)
○5月8日、調理手の江本要吉は戦争中に輸送船大洋丸の乗員だったが、船は撃沈され、漂流し、海と戦い、九死に一生を得た船乗りである。
(「文学界 55.7」 2001 p137 桂芳久)
昭和17年(1942)
○5月8日、田久保英夫の最初の長編小説「触媒」の中に、戦争末期、商船大洋丸の乗組員になって死んだ兄のことが描かれている。主人公がこの兄の死を回想するときの屈託は、なみの戦没者を思うのとはちがう暗さがつきまとっている。
(「文学界55.7」 2001 p139 桶谷秀昭)
昭和17年(1942)
○5月8日、灯火管制で細い光一と筋船窓からささいな真黒な大洋丸の船窓が一時にぱっとあかくなった。電灯であろうか、機関部はやられていないのだから、発電機は故障していないわけだ。あるいは船室に火がまわったのであろうか。いづれにしてもそれは命終の直前の一燦である。私は何かハッと胸をつかれた。船艙の火はしだいに消えて行った。浸水のために自然鎮火したのであろう。船はぱったりと灯が消えた。暗夜の海に真黒い船だ。もうしっかりと見えない。多分あれだろう、あの辺だろうと、見当をつけて目をこらしているだけだった。
(「素馨の花」 青垣発行所 1964 p17 橋本徳壽)
昭和17年(1942)
○5月8日20時35分、傾いていた本船は再び水平になり、また遂に船首を海面に突っ込み逆立ちし始め、海水は近藤輸送指揮官、吉田副官、原田船長、沖等の足下を洗い、相前後して海中に吸い込まれた。完全に沈没したのは20時40分前後、位置は北緯30度45分東経127度40分付近と思われる。沖は渦に吸い込まれて約1分後浮き上がることが出来、前面に6尺四方位の板が浮き上がりこれに掴まることができた。暗夜によくみると吉田少尉もこれに掴まっていた。大きな波浪に翻弄されながら漂流すること約3時間ほどたって、手足は凍えるばかり、沖も眠りに陥りそうになりながら、吉田少尉を励まし励ます。
(「日本郵船戦時船史資料集下」日本郵船1971 p289 沖義八郎)
昭和17年(1942)
○5月8日、日の落ちきる少し前、大洋丸に敵潜水艦からの魚雷3発が命中し、大洋丸は間もなく闇の海に沈んだ。乗員1500人のうち500名が助けられ、私もその一人だった。東京に還され、東京を再出発したのが7月13日、宇品を出帆したのが17日、今度は昭浦丸という6800トンの貨物船であった。潜水艦に襲われたりして、決して安らかな航海ではなかったが、8月7日に昭南(シンガポール)港に入港した。私は民間人として渡南した。南方で輸送船や漁船を無数に建造しようと思った。馬来軍政部海運科に行くと、私の著書「木造船と其の艤装」を唯一の宝典として、全南方に配布し150トンから250トンの輸送船建造に必死であった。
(「天草日記」熊本・本渡諏訪神社 1974 p77 橋本徳寿)
昭和17年(1942)
○5月8日午後8時過ぎ、大洋丸はドイツ船のため、舷側が高くて、ボートデッキから海面までは20m以上あったが、そこから飛び込む者もいた。大洋丸の周辺の海面には、黒豆を撒き散らしたように、人々の頭が浮かび、大きなうねりが押し寄せてくるたびに、黒豆は見え隠れした。「この夜の地獄でしたな...」三井物産のセメント部長だった、87才になる米沢嘉次郎は、そういって目を閉じる。
(「週刊ポスト 14.32」 小学館 1982.8.6 p212 片山 修)
昭和17年(1942)
○折あらば兄眠る海東支那海に行きてぞ逢わん五月八日に/百十七名の遺族らつどい長崎の本蓮寺の堂を埋めつくしぬ/生きてあらば六十五のわが兄の面わは今も若き日のまま/刻一刻変る夕焼けの空みつつ南に夢をかけし亡兄おもう/和夫という名を見るたびに夫・母の兄につけたる願いおもえり/「賀茂丸大洋丸洋上慰霊」[1986.7.19] 我が家族のそれぞれの事こまごまと書き瓶に入れ海に落しぬ/亡兄よ我が投ぜし瓶を逸早く拾いて読まん妹書ける字を/兄もまた語学学びて海外にゆかん情熱を語り合いしと/大洋丸遭難誌す碑とこしえに本蓮寺にあり子等に伝えん
(「歌集さくらの花」くらうん工房1999 p25-209 飯田富士江)
昭和17年(1942)
○5月5日、午後1時過ぎには、軍隊輸送用のハシケが回航され200余名が乗り込むと、小型蒸気船が沖合の大洋丸まで曳航を始めた。八田与一達も他の南方経済建設要員1010人とともに沖に向かい、大洋丸に乗船してみると、木で作られた偽装砲が取り付けられていた。これを見た与一は、「こんなもので、陸軍は何をするつもりなんだろう」とあきれた。大洋丸は午後7時半、宇品沖を出港して瀬戸内海を下関に到着し、炭水の補給を行う間に最後の手紙が許可された。甲板では偽装砲を取り除き、車輪付の野砲を据え付けていた。「こんな野砲をいくら船に積んでも役に立たない。無駄なことだ」と話していると、市川技手が現れた。お互いに船室番号を教えあって、再会を約束して別れたが、これが最後の別れになった。
(「台湾を愛した日本人」 青葉図書 1989 p284 古川勝三)
昭和17年(1942)
○5月8日、 日本最大の客船、日本郵船会社所属の大洋丸1万4500トンが米海軍潜水艦による魚雷攻撃によって撃沈された。私はこの悲報を基隆に向かう仏印からの帰り船の中で聞いた。死亡者のなかに、台湾総督府が誇りとした勅任待遇の内務局の土木技師、八田与一・荒木安宅の両技術者がいた。台拓では、創立以来からの親友、東谷政夫書記・見習社員だった佐藤文哉両君も乗船していた。後日聞いた話だが、東谷君は水泳が練達の人だった。佐藤君は金槌みたいで全然泳げない。荒波で炎上する船から流れ出た板切れに危うくつかまっている佐藤君の傍らを、東谷君は「おい頑張れ」といって、スイスイとクロールで泳ぎ去ったという。その東谷君が死亡し、佐藤君は救助されている。
(「台湾拓殖会社とその時代」 葦書房 1993.8 p332 三日月直之)
昭和17年(1942)
○八田与一は陸軍に徴用されてフィリピンにむこう途中、乗船の大洋丸が米潜水艦の攻撃をうけ撃沈されて死んだ。56歳であった。3年後に妻・外代樹があとを追った。外代樹は、医師米村吉太郎の娘として、金沢市上胡桃町(現・兼六元町)に生まれた。金沢第一高女を卒業すると、すぐ与一と結婚し、台北の官舎に住んだ。大正6年のことである。その後、2男6女を儲けた。八田与一も金沢の人で、明治19年(1886)に生まれた。四高を経て、東京帝大土木科を卒業、台湾総督府土木局につとめた。嘉義市から台南市までの野は、嘉南平野とよばれる、ひろびろとした平野であるが、不毛の土地であった。河川のうち官田渓と曾文渓をあわせたダムをつくる計画をした八田は、間の烏山嶺をくりぬいて水をダムに導く設計をし、施工した。大正年間のことである。3千米の隧道を掘るのに多くの死者がでたが、1億5千万トンの烏山頭ダムは東洋一になる。そこから嘉南平野に縦横にめぐらされた水路は、万里の長城2千7百キロに及ばないが、それでも1万6千キロもある。
(「台湾紀行−街道をゆく40」 朝日文芸文庫 1997 p228 司馬遼太郎)
昭和17年(1942)
○5月30日、八田与一の遺体は1カ月余り海中を流れていたためか、頭や手などの衣服を着けていない部分は、白骨化して、誰なのか分からなかった。ところが、衣服は完全で、内ポケットのなかの財布や名刺入はそのまま残っていたため、名刺から台湾総督府の八田技師と分かったのである。「嘉南大?の父」八田与一は、五十六歳の生涯を東シナ海で終えていたのである。
(「台湾を愛した日本人」 青葉図書 1989 p296 古川勝三)
昭和17年(1942)
○兄は第二次大戦の中期、二十歳で大洋丸という船に乗り、米軍の潜水艦の魚雷をうけて船とともに沈んだ。大洋丸は当時、豪華客船だったが、輸送船として徴用され、南方開発の多くの民間人や軍人を乗せて、長崎を出港してまもない時だった。家はもともと東京下町の料亭で、父はとうに亡く、母親がひとりで経営していたが、しだいに緊迫する国策に合わず閉鎖になり、兄は方々へ働きにでた。私はその頃十代前半で、兄は四歳上ながら染物屋、塗装屋、溶接工場など転々として働き、戦争の始まる少し前、日本郵船という会社の船に乗りこんだ。上海、大連、ハワイ、サンフランシスコから兄が手紙と一緒にくれた写真をまだ持っている。
(「朝日新聞 40436」 1998.9.29夕刊 p21 田久保英夫)
昭和17年(1942)
○大洋丸で死んだ兄の、生き残った若い同僚が家へ訪ねてきて、その前後の模様を母や自分に教えてくれたのだ。私の十一二の頃で、浅黒い健康そうなその男の顔を見ると、訪ねてくれた親切より、眼のまえの相手が生き残って、兄が死んだ不条理だけを、感じたのを憶えている。沈没したのは深夜で、同室の彼らはもうベットに入っていたという。船は大きな外航客船で、南方への輸送に徴用され、民間人や軍人も大勢乗せていた。他の船と船団を組み、護衛艦もついていたが、その船だけが突然暗闇の海から魚雷をうけ、殆ど瞬時に沈んだという。大きな衝撃とともに、同僚のベットの床は、僥倖にも扉口側へ傾いて、躰がそこへ投げ出され、急いで甲板へ階段を上ると、あとは客室から階段へ駆けよる人びとが蝟集した。それからすぐ電灯が消えたが、その直前人びとの中から、兄が一人だけ通路を船尾の方へ走るのを見た、と同僚は話した。
(「触媒」 文芸春秋 1986 p173 田久保英夫)
昭和17年(1942)
○田久保光太郎・戦死
(「日本郵船戦時船史 上」 日本郵船 1995 p79 大洋丸乗組員名簿)
昭和17年(1942)
○東支那海で大洋丸撃沈、帰京して再出発。その時茂吉は、南方占領地で木造船多数製造の指導に当たろうとする技師橋本徳寿を賞讃し励ます2首の歌を贈った。橋本は7月13日、宇品から貨物船で出帆、8月8日にシンガポールに着いた。
(「斎藤茂吉全集月報 17」 岩波書店 1971 p4 橋本徳寿)
昭和17年(1942)
○こうした計画やら空想やらに、はしゃぎきっているときだつた。「ドズーン」なんともいえない圧力のこもった重苦しい音と共に、船全体がはげしい衝撃をうけた。「やられたッ」永福・井上の両君が椅子からとびあがった。何にどうやられたのか、私には咄嗟には思いうかばなかつたが、すぐあとから浮流機雷に触れたのではなからうかと思った。両君は本能的に救命胴衣をつけはじめた.「ドズーン」「ドズーン」つづいて二発、船は小づかれて身ぶるいした。「これはいかん」私は船床からしずかにおりた。服はつねに着ている。鞄をはいた。洋服戸棚をあけた。さげてあつたレーンコートをすばやく身につけた。そのうえにカボックの救命胴衣をあたまからかぷり、紐を背にまわしてしばりつけた。そういううちにも船は左舷に傾くではないか。正しく魚雷だ。まちがいはない。時計を見ると7時45分だ。国民帽をか部ぶって船室をとび出した。両君はすでにとっくに飛び出してしまつた。私の部屋からは狭い喫煙室を抜けさえすれば上甲板だ。もうだいぶ時がたっているので、この辺にまごまごしている人もない。とび出した甲板はまだ夕あかりにあかるい。
(「中央公論 65.5通号735」 1950 p193 橋本徳寿)
昭和17年(1942)
○すでに大洋丸は船首の船艙から火を発して、艙口蓋板を噴きとばし、炎を赤く噴きあげている。そこからものが爆発して暗い空へたかくあがる初発は衝撃の感じからいつて、私の思うには、船尾荷足水槽のあたりに命中したのでは、あるまいか、これでプロペラーや舵をいためたのではないかしら。つづいた2発3発が船首船艙に命中した。そこにカーバイトが積んであつた。魚雷であけられた横っ腹から海水が奔流してきた。カーバイトガスが発生して引火した。あたかもガソリンタンクに火をつけたと同じ結果となったのだ。近くに手榴弾も積んであった。それが爆発して花火のように宙に噴き上ったのだ。誰いうとなく船尾の船艙には砲弾が積みこんであるという。その砲弾に引火したならば本船は木葉微塵に吹きとんでしまうことであろう。
(「中央公論 65.5通号735」 1950 p195 橋本徳寿)
昭和17年(1942)
○5月8日午後7時40分、突如ドカーンという大きな音響とともに大洋丸の船体は後方の海面下から異常な強い衝撃を受けた。魚雷襲撃だ。避難にかかる騒然たる人声、足音。混雑は次第に増してくる。第二の魚雷が船首近くに、続いて第三の魚雷が船の中央部に命中して、避難を急ぐ乗船客の群れに激しい衝撃と音響を伝えた。船は火災を起こして停止し、ボートは下ろされ始めた。12号艇が1、2間下りたところで平均を失って落下した。不安が頭をかすめる。見ると6号艇、8号艇も水中に没し、10号艇のみ波間に漂っているが、そこに集まっている人々だけでも乗れそうもない。
(「コンテナリゼーション120」 日本海上コンテナ協会 1979.10.20 p27 久芳昇)
昭和17年(1942)
○5月7日、大洋丸には一八隻の救命ボートが積まれていた。右舷に奇数の一から一七、左舷に偶数の二から一八号艇、乗員は一艇あたり四九人で、合計九八五人、船には定員を上回る一三〇〇人以上が乗っていた。8日午後二時避難訓練で、決められたボートの前に集合した時、万一の場合、30歳以下の者は、筏で避難することになった。肝心の訓練は、点呼だけで救命艇をおろす作業はなかった。
(「大洋丸誌」 大洋丸会 1985 p47 佐藤祐弘)
昭和17年(1942)
○5月8日、一発目の魚雷を受けてから一時間。近藤久幸輸送指揮官、吉田善三郎副官、原田敬助船長、沖義八郎一等航海士らは重要書類を海中に投下し、原田船長は全員退船を命じた。左舷に傾いた大洋丸はいったん水平になり、すぐ船首を海面に沈めた。「船はこれまでです」船長の悲痛な声が流れた。その時十数人が雪崩れのように海中に落ちた。浸水が激しく沈む寸前の12号艇に乗っていた武田博は、まだ灯かりをつけた大洋丸が、腰掛ける三人の人影と共に船首から海中に突っ込むのを見届けた。東洋鉱山の佐藤祐弘の耳には、大洋丸が沈没していく音が残らなかった。音もなくスーッと沈んでいったようにみえた。
(「企業戦士、昭和17年春の漂流」 朝日新聞社 p251-253 小田桐誠)
昭和17年(1942)
○五島列島を過ぎてから、僚船大洋丸が魚雷攻撃を受け、大火災を起こして沈没した。大洋丸は吉野丸と共にドイツから来た賠償船のカップ・フィニスター号であったから、元の船名クライストの吉野丸の乗組員にとっては、特に親近感もあって感無量なものがあった。大洋丸沈没後は吉野丸が嚮導船となり、船団をまとめて南下し、馬公、サンジャックを経て6月7日シンガポールに着いた。
(「帝塚山学術論集 1」 帝塚山大学 1995 p10 岡田泰治)
昭和17年(1942)
○5月8日、午後11時30分頃、暗夜の海上に探照灯の光、駆逐艦峯風と特設砲艦富津丸は、船団護衛に当たっていたが午後5時頃、帰路についていた。午後9時過大洋丸遭難の報に急遽反転、現場に到着。峯風の2等兵曹越智忠良は、そこでたしかに、得体の知れない叫びが海の底から湧きあがってくるのを聞いた。峯風と富津丸は救助活動に当たった。一夜明けると、風はやみ、海は穏やかになっていたが、あたりは死者の海と化していた。澄み切った海面に、白い救命具を身につけた死体が「へ」の字や、「く」の字に折れ曲がって、限りなく浮いていた。
(「大洋丸誌」 大洋丸会 1985 p47 佐藤祐弘)
昭和17年(1942)
○5月、日本綿花株式会社のビルマ派遣第2陣20人を乗せた大洋丸は、南方地域の天然資源を活用して経済開発をはかるために、民間から派遣された技術者や専門家1063人と軍人34人、乗組員263人、合計1360人を乗せ昭和17年5月5日宇品港を出発、7日、六連島で輸送船団を編成、駆逐艦など3隻に護衛されて出発、8日午後7時30分頃、長崎県男女群島、女島南南西の海上で敵潜水艦の雷撃を受けて沈没、817人が死亡し、543人が救助された。当社からの三分一克己社員を団長とする社員16人と嘱託3人、計13人が死亡した。大惨事であったが、軍の方針で詳細な報道が禁じられ、関係者にも緘口令がしかれたので、戦後になってようやく全容が明らかになった。 死亡者13人:三分一克己・徳田朝三・都築英吉・松下龍三・安司正隆・小坂正樹・上島一雄・松波光照・波多野稔・松山一雄・川西一馬・東郷政治・粟井政義。 生存者7人:岡 忠・佐々木民二郎・鈴木太一・滝川舒溥・尾崎 茂・三村光男・平岡虎雄
(「ニチメン100年」 社史編集委員会編 ニチメン 1994 p100-101)
昭和17年(1942)
○5月8日、吉野丸の僅か数メートル脇を魚雷が走り、大洋丸の船体に命中した。夕暮れの海上に大洋丸の炎上を見た私は、どうか沈みませんようにと祈った。しかし大洋丸は暗い波間に沈み、二千の同胞は玄海灘の藻くずと消えた。海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ・・・甲板で冷たい潮風に吹かれながら、私たちは二回繰り返して歌った。あちこちからすすり泣く声が聞こえた。私の頬も次々と溢れ出る熱い涙で濡れていった。大洋丸から吉野丸への乗船変更がなかったら今頃私は・・・身体中の震えが止まらなかった。
(「ジャングル記」 東都出版 1988 p25 高橋正子)
昭和17年(1942)
○従軍タイピストとしてボルネオに向け私達は宇品から出航しました。船は大洋丸の予定が直前に吉野丸に変更になりました。出航3日後船団が五島列島沖を進んでいたとき、ズシンという音と共に船体が揺れ、非常ベルが鳴り響きました。救命胴衣をつけタラップを昇り甲板に出ると夕暮れ時でした。並走の大洋丸が火と煙に包まれていました。魚雷にやられた、とすぐわかりました。私達に出来るのは祈ることだけでした。1時間ほどで大洋丸は沈み、2千人近い乗船者も海に消えてしまいました。私達は力なく甲板に座り込み「海ゆかば」を歌い、冥福をいのりました。
(「朝日新聞 43338」 2006.12.05日刊 12版p14 高橋正子)
昭和17年(1942)
○突然の乗船変更で吉野丸に乗船、マレーシア軍政監部に職員として赴任する高橋靖子さん(73)は、オレンジ色の火柱を上げ、暗闇にくっきりと浮かんだ大洋丸を船影を忘れない。元陸軍軍医で熊野市在住の医師小山宏さん(76)は、大洋丸に乗る予定を、乗船間際になって吉野丸に変更された。生死は紙一重である、大洋丸の甲板を行き交う人影が今も目に残る。戦後は医療と福祉活動に懸命に取組んでいる。
(「続・大洋丸誌」 大洋丸会 1995 p305 佐藤祐弘)
昭和17年(1942)
○八田与一氏は陸軍から南方開発派遣要員として招聘されます。その年の5月7日、1万4000トンの大型客船大洋丸に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸は沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年56歳でした。妻の八田外代樹は3年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず台湾から去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御年46歳でした。八田氏は「公に奉ずる」精神こそが、日本人本来の精神的価値観であると教えてくれました。
(「「武士道」解題−ノーブレス・オブリージュとは」 小学館文庫 2003 p308 李登輝)
昭和17年(1942)
○5月7日、午前8時30分、護衛艦北京丸で船団会議が開かれ、船団5隻のスピードを一番遅い御影丸の速力9ノット半に合わせることになった。航海速力14ノット、最大速力17ノットである大洋丸の原田敬助船長は、「そんなに速力を落とすと、機関整備が困難になるほか、敵潜水艦襲撃の危険率が高くなる」と強く反対したが、御影丸は海軍関係船であったため原田の要望は受け入れられなかった。
(「週刊ポスト 14.31」 小学館 1982.7.30 p217 片山 修)
昭和17年(1942)
○5月8日午後6時52分、米潜水艦グラナディア号は男女群島を南下する船団を認めた。先頭の大型船を大洋丸と確認したのは午後7時、日没前に攻撃すれば、敵機や護衛船の反撃が予想される。日が暮れては、大洋丸を捕捉できない可能性もある。しかし大型船の撃沈は船団に最大の打撃を与える。グラナディア号のレント艦長は、日没前の攻撃を決断し敵からの反撃を甘受することにした。4発の魚雷が発射された。
(「企業戦士たちの太平洋戦争」 社会思想社 1993 p223 小田桐誠)
昭和17年(1942)
大洋丸 14453総トン 日本郵船 17年5月7日12・00門司発、昭南に向け航行中、8日19・45頃N30・45−E127・40(男女群島南西170キロ付近)にて被雷、第1弾が左舷船尾、第2弾が同2番艙に命中し搭載中のカーバイトが発火、船体全部が忽ち火の海と化した。火災は更に拡大し船底では猛烈な浸水で船体が傾斜し、20・40頃沈没、船客660名、船員157名戦死。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p71 池川信次郎)
昭和17年(1942)
○5月17日、大洋丸の神戸出帆を見送った色部要は長崎に急派された。救助船の名が偶然吉野丸であったが、その吉野丸に乗船、捜査船団の指揮者となった。船団は福江島、嵯峨島付近を捜索、夜疾風で波浪高く航行困難となり、吉野丸は夜10時半福江島大浜沖に投錨。18日北東の疾風、海は時化模様、吉野丸は午前4時大浜を抜錨、大瀬崎を通り西に25哩進んだが一日中巨濤を被り、午後は漁船員船酔、暮色迫り豪雨、玉之浦発見できず、午後8時陸岸近く投錨。19日未明から捜索、時化収まらず捜索中止、玉之浦役場に集合して情報交換をなす。20日吉野丸ほか3隻は、大瀬崎西方25哩を捜索。26−29日陸軍御用船到着、漁船4隻と済州島付近を捜索。27日強風福江島の荒川に避難、29日済州島投錨。無線機なく手旗信号解せず、相互連絡不能。30日早朝抜錨、日和回復し午後5時牛島対岸帰着、夕方済州島北岸の細花浦に漂着の8遺体中に、金筋4本の船員服姿があるという知らせに、疲労の極にあった色部が現場に急行。頭部は白骨化していたが、鼻下の肉片に原田敬助船長の薄髭を発見して、顔面骨格、身長と袖章により、色部は原田船長にちがいないことを確認。その無惨な姿に、色部は男泣きに泣いた。
(「日本郵船戦時船史 上」 日本郵船 p72-74 沖義八郎)
昭和17年(1942)
○松尾中尉は大洋丸撃沈23日後の5月31日、他の2隻の特殊潜航艇とともにシドニー軍港に潜入し米重巡シカゴに魚雷を放とうとしたが爆雷を浴びて沈んだ。
(「20世紀全記録」 講談社 1987 p619)
昭和17年(1942)
○8月27日、台風と高潮で九州・四国に被害、死者・行方不明1158人、全壊流失3万3283戸。18年9月10日、鳥取大地震で死者1210人、家屋全焼1万3295戸。同9月20日、西日本の台風で死者・行方不明970人、家屋全壊6574戸。これと米潜水艦の魚雷攻撃で沈没した南方派遣の「大洋丸」の死者817人(17年5月8日、民間技術者が多い)、関釜連絡船が撃沈され死者544人(18年10月5日)などは、大惨事ながら一般には隠された。
(「近代日本の戦争」 岩波ジュニア新書 1998 p64 色川大吉)
昭和17年(1942)
○10月8日、日英民間人の交換船任務を終えて横浜に帰港した日本郵船の鎌倉丸(旧名秩父丸)は、戦前姉妹船の浅間丸、竜田丸、大洋丸とともに北米航路に就航していた1万7千トンの豪華客船で、10月15日付で再び海軍徴用船に復帰、満員の客は主として蘭領インド各地へ赴任する司政官や軍属、看護婦らだった。同じ任務で南方に向った大洋丸が5月8日に米潜水艦に撃沈され、ほとんど全員が死亡するという惨事の後だったために、護衛は厳重を極めた。前方と左右に駆逐艦がつきそい、出航後しばらくは飛行機が1機上空を警戒、3昼夜ほどたつと駆逐艦2隻は南支那海の真ん中で姿を消し、残る1隻の駆逐艦に守られて穏やかな海上を南下、1週間たらずでマカッサルに到着した。これが鎌倉丸の海軍徴用船に復帰した最初の航海だった。
(「海軍病院船はなぜ沈められたか」 芙蓉書房 2001 p51 三神国隆)
祖父は戦前マラヤでゴム園の仕事をしていましたが、開戦前に帰国。再び軍属として向かう途中だったといいます。