○大洋丸を沈めた米潜水艦のその後。マレー半島西岸のペナンには第一南遣艦隊の第九根拠地隊があった。1943年4月20日午前10:30、ペナンに派遣されていた第九三六航空隊の艦攻1機が、プーケット島沖で浮上潜水艦1隻を発見。米潜水艦「グレナディア」であった。同艦は1941年に就役したタムボー級(1475基準トン/水上)の一艦。オーストラリアのフリマントルから出撃し、これが6回目のパトロールだった。4月20日夜、ペナン北西のレムボワラン海峡で2〜3隻の船団を発見した同艦は、これを追跡中に見失い、再度発見した船団を襲撃準備中に、日本機の攻撃を受けた。同艦は直ちに潜航したが、深度35m付近で対潜弾が命中炸裂、機関コントロールルームと後部発射管室の間に命中。船体後部とハッチは破壊されて浸水、動力を失ったが、浮上して低速航行が可能なよう修理した。4月21日午前03:20、船団2隻護送中の特設砲艦がグレナディアを発見したが見失った。翌朝09:05、第九三六航空隊の一機がグレナディアを再発見。九七艦攻の爆撃を受けた同艦は機銃で反撃したが、09:30特設捕獲網艦長江丸が駆けつけて砲撃を開始するに至り、艦長フィッツジェラルド少佐は艦の放棄を決意、白旗を揚げて降伏した。10:00船体が沈みはじめ、乗員は海上から救助され、士官8名、下士官兵30名が捕虜となった。戦後帰還したのは艦長以下6名と言われている。なお「グレナディア」の戦果は、1942年5月8日に日本郵船の大洋丸を沈めたのが唯一であった。
(「敵潜水艦攻撃」 朝日ソノラマ 1989 p63-65 木俣滋郎)
昭和18年(1943)
○4月20日、大洋丸を撃沈した米潜水艦グレナディア号は、開戦以来6回目のパトロールに、オーストラリアのフリーマントルから出撃、マレー半島西岸のペナン北西レムボアラン海峡で日本の船団を発見、襲撃準備中に、午前10時30分、日本軍第九三六航空隊の艦攻1機に攻撃された。ただちに潜航したが、投下された250キロ対潜弾が深度35mで炸裂。機関コントロール・ルームと後部発射管室の間に命中し、後部船体とハッチを破壊、浸水して艦内照明は消え、動力も失われた。海底80mに座礁したが浮上して修理につとめ、漸く低速航行が可能なまでに回復した。21日午前3時20分、船団を護送中の特設砲艦江祥丸が、グレナディアを発見、3時間追跡したが見失う。9時45分、九七艦攻と陸軍機が飛来したが発見不能。翌22日午前9時5分、第九三六航空隊の1機がグレナディア号を再発見、九八艦攻の爆撃を受けたグレナディアは機銃で反撃、9時30分、第9根拠地の特設捕獲網艦長江丸が駆けつけ砲撃を開始するに至り、艦長フィツジェラルド少佐は艦の放棄を決意、白旗を掲げて降伏、10時、船体は沈みはじめ乗員は海上から救助されて、士官8名下士官30名が捕虜となった。ペナンに連行された乗員は、日本側の訊問を受けた。戦後帰還できたのは、艦長以下6名、他の乗員については明らかでない。なお、グレナディアの大戦中の戦果は、大洋丸1隻であった。
(「敵潜水艦攻撃」 朝日ソノラマ 1989 p63-65 木俣滋郎)
昭和18年(1943)
○8月、日本から同盟国ドイツへの連絡艦伊号第8潜水艦の航路予定路、スペイン沖であるフィニステレ岬からオルテガル岬間に敵イギリスの有力な艦艇が哨戒にあたっているという駐独日本大使館からの機密電が来た。ドイツ空軍は、伊号のオルテガル岬沖合突破を援護するため、通過時刻にイギリス海軍の哨戒部隊を攻撃する計画をたてているが、それが、果たして成功するかどうかは予測できなかった。
(「吉村昭自選作品集 4」 新潮社 1991 p118)
昭和18年(1943)
○昭和18年の暮れ近く、(前田利為ボルネオ軍司令官の遺言できたような太平洋戦争占領地で唯一の文化映画「キナバル山」の)撮影済みのフィルムを持って、私は内地に帰還した。南方ボケの私の頭と皮膚は、内地のきびしい冬の寒さに悲鳴をあげた。二年ぶりの対面で、家内が口にした最初の言葉は、五島列島沖で起こった大洋丸撃沈で大洋丸に私が乗り込んでいたとばかり思っていたので、仏壇に写真を飾り、毎朝夕お経をあげていましたとのことだった。戦時下の家庭に、こんな話は幾らもあったろう。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p252 藤波健彰)
昭和18年(1943)
○昭和18年の暮れ近く、撮影済みのフィルムを持って、私は内地に帰った。南方ボケの私の頭と皮膚は、内地のきびしい冬の寒さに悲鳴をあげた。2年ぶりの対面で、家内が口にした最初のことばは、内地出発直後、五島列島沖で起こった大洋丸撃沈事件のことであった。家内は私が大洋丸に私が乗り込んでいるものと思い込んでいたので、「詳報がくるまで仏壇にあなたの写真を飾り、毎日朝夕お経をあげていましたよ。顔を見るまでは本当に後家さんになったのじゃないかと思っていました」といった。戦時下の家庭に、こんな話はどこにでもあったことだろう。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p252 藤波健彰)
昭和18年(1943)
4月28日午前2時過ぎ、マニラからボルネオのバリクパパンへ向う単独航海の途中、米潜水艦によって右舷に2発の魚雷を受けて沈没した。約2500人の海軍軍人と軍属(150人は婦人)の乗船者、180余人の乗員のうち生存者は462人に過ぎなかった。太平洋の女王と謳われた豪華客船とともに2000人を超える人々が南冥に消えた。
(「海軍病院船はなぜ沈められたか」芙蓉書房 2001 p51 三神国隆)
昭和19年(1944)
日高丸 5468総トン 日本郵船 19年1月9日11・00パラオ発、佐伯向け航行中、20日01・03頃N31・32−E135・58(室戸岬南東260キロ付近)にて左舷4番艙後部に被雷、航行不能となり漂流中、14・56船尾より全没、便乗者14名、警戒隊1名、船員1名戦死。*大洋丸撃沈時17年5月8日同船団の1隻。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p184 池川信次郎)
昭和19年(1944)
○5月8日、今日は私にとっては東支那海遭難記念日だ。いま夜の22時だ。すでに大洋丸も沈んでしまい、真っ暗な海上を、激浪にボートがひっくりかえらないように、みんなで力をあわせている頃だ。私は絶対に死ぬとは思わなった。人間にはなんか感じというものがあるのだ。死ぬときには、今度は駄目らしいという予感があると思う。私はそんな感じをうけたことはまだ一度もない。私はまだまだ生きて働けるだろう。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣出版社 1964 p231 橋本徳寿)
昭和19年(1944)
○5月29日、私ももう死ぬ時期かも知れない。死ぬなら、こんどのボルネオ行きで敵機との遭遇戦でひと思いに散ってしまいたいものだ。なんだかそうなりそうな気もする。芝浦電気の青山嘱託が日本に帰還する。その送別会の昼飯を高等官集会所で食べた。日本料理だった。私などはじめから南方の土になる覚悟で出てきたのだが、こうしてちょいちょい帰る人を送ると、意気地なく心がぐらつく。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣出版社 1964 p235 橋本徳寿)
昭和19年(1944)
北京丸 2288総トン 大連汽船 19年7月15日12・10海南島三亜発、高雄向け船団護衛にあたった、19日朝帝竜丸が雷撃を受け沈没した為同日18・08北サンフェルナンドに避泊する為進路変更、21日22・55頃N17・31−E120・22(ルソン島ビガン南南西7キロ付近)にて座礁、28日雷撃を被り大破、放棄となる。*大洋丸撃沈時17年5月8日、同船団の1隻。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p266 池川信次郎)
昭和19年(1944)
○7月、吉野丸は、宇品港で第三三兵站病院部隊、門司から関東軍南方移動部隊、合計六千近い大部隊を乗せていた。私たちが、このバシー海峡渡洋船団のなか、没寸前の吉野丸のすぐそばを通り過ぎたのは、7月31日の午前5時過だった。吉野丸は、左舷に傾斜し、前部甲板上はすでに白波が打ち上げ中央船室部、上甲板には乗船部隊の大群集がなすすべなく、阿鼻叫喚のさまが視認できた。魚雷三弾を受けた船体の傾斜で、逃げ惑う人々は足場を失い、海中になだれ込み、船内に多くの兵隊たちを道連に、吉野丸は間もなく船首部から静かに海中に没した。
(「戦記最後の輸送船」 成山堂書店 1982 p73 竹内いさむ)
昭和19年(1944)
吉野丸 8990総トン 日本郵船 19年7月29日05・00高雄発マニラ向け航行中31日03・40頃N19・05−E120・55(ルソン島マイライラ岬北方36キロ付近)にて右舷2、3番艙に計2発被雷、激しい浸水の為03・47船首より沈没、部隊員2442名、船砲隊18名、船員35名戦死。*大洋丸撃沈時17年5月8日、同船団の1隻。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p267 池川信次郎)
昭和19年(1944)
御影丸 2741総トン 武庫汽船 19年10月22日14・00門司発、マニラ向け航行中、24日01・23頃N32・56−E125・54(済州島西端南西50キロ付近)にて複数の敵潜から攻撃を受け被雷04・30頃沈没、船員27名戦死。*大洋丸撃沈時、同船団の1隻。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p321 池川信次郎)
昭和19年(1944)
○12月19日、昨日会社から私の船図をみんな研究所に持ってきた。これは日本から私が持ってきたものだ。私が長い間、三十年もかかってした船の仕事の蓄積だ。青写真が主だが、かさねて二尺ばかりの高さになる。どの船にも、どの図1枚にも私の命がこもっているのだ。これを分類整理したのだが、木堂中尉と二人で丸一日かかった。こちらで暮らすつもりで来たので全部もってきてしまったのだ。もっとも初発の航海で、大洋丸でこのくらいを海に沈めてしまったのであった。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣発行所 1964 p309 橋本徳寿)