○5月26日、天草高校で13時40分から話をはじめる。広い講堂に800人余の生徒でいっぱいだ。はじめは万葉集や、わかりやすい啄木の歌を引いたりして話したが、どうも生徒の顔いろは面白くなさそうである。で一転して「大洋丸」の魚雷遭難の体験談をした。これは生徒が大いに聴いてくれた。私の話の要点は、身に迫る危険な大事に処するにあわてるな、落ちつけということにある。1時間と言われたのを1時間15分話した。よくわかったそうだ。
(「天草日記」 本渡諏訪神社 1974 p129 橋本徳寿)
昭和50年(1975)
○3月、大洋丸撃沈事件で死去した岳父は、青年時代から南方の拓殖に従事しており、事件当時は熱帯文化協会理事で、台湾拓殖・古河鉱業に所属しており、南方における功績を認められての軍命令に、勇躍して応じた。その日米軍死守のコレヒドール島陥落があり、祝宴がはられた。惨事はその直後におこった。岳父は佐渡の荒海で鍛た水泳の名手だったから、酒を飲んでいなければ、死ななかったと思う。家内は今でも岳父の話をすると、壮途空しく散った父の死を悼んで泣く。昭和50年3月家族で九州旅行の際「勝海舟寓居跡」の碑が目にとまって、日蓮宗本蓮寺の境内に足を踏み入れた。そして一隅に「南方産業建設殉職者之碑」を発見。原爆をうけて黒ずんでいるが、大洋丸で遭難した方々の慰霊碑であった。原爆で本堂を始め、碑の周辺が吹き飛ぶ中で残っていた碑、関係者も知らなかったこの碑の発見が、その後慰霊祭の実現にまで発展することになった。
(「水口敏之遺稿・回想集」 新風舎 1999 p231)
昭和50年(1975)
○大洋丸の事務長の妻斎藤邦江は戦後長くアメリカ大使館で働き、小中陽太郎の米国渡航を援助。小中がフルブライト交換教授となっても司法省はベトナム反戦運動をした小中に旅券を出さない。斎藤は大使館に日参する小中を上司に紹介。夫の船を沈めた元敵国の大使館に30年も勤めた妻の気持ちはどんなものだろう。
(「ラメール母」 平原社 2004 p43 小中陽太郎)
昭和53年(1978)
○大洋丸会の設立総会は、6月8日東京大手町経団連会館で行われた。現フィリピン在住の加納照雄氏が、日本シルバーボランティアズの佐藤祐弘氏を訪ね、共に大洋丸遭難生残りであることを知ったことに始まる。戦後長く埋もれた大洋丸遭難の事実を語り継ぎ、記録の収集・編纂を行ない、殉難者諸兄の慰霊・供養としたい願いからであった。そこに加納氏の友人で、生き残りの関谷博氏が加わった。
(「大洋丸誌」 大洋丸会 1985 p116 佐藤祐弘)
昭和61年(1986)
○大洋丸は昭和17年5月、賀茂丸は昭和19年7月、いずれも米潜水艦に雷撃され、長崎五島列島沖で沈んだ。大洋丸で兄を亡くした府中市の主婦飯田富士江さんと、賀茂丸で父を亡くし銀座で中華料理店を経営している市瀬澄子さんたちは、船をチャータして、洋上慰霊祭を計画中である。市瀬さんは女手ひとつで店をおこし、戦後の混乱期を乗り切ったが、戦争で海に沈んだ人たちの無念さを想い、父を奪ったその海上で慰霊祭をしたいという夢をずっと持ち続けてきた。その気持ちに火をつけたのが昨年夏の戦艦大和の発見と遺品引き揚げ。場所は賀茂丸のすぐ近くの海域だった。ほかの遺族も同じ気持ちのはず、と参加を呼びかけたところ、大洋丸の犠牲者の慰霊も一緒にさせてと飯田さんが申し出た。船は昭和61年7月上旬、長崎を出る。
(「サンケイ新聞 15708」 1986.5.7夕刊 p3 相馬勝)
昭和61年(1986)
○7月19日、 母と一緒に東シナ海の海へ、長崎から船で行ったことがあった。戦後、同じ輸送船の殉難者の家族会ができ、その肝煎りで、有志三十組あまりが船に集まった。推定の沈没海域は、長崎から二時間ほどの意外に近い距離だった。風の冷たい早春で、うねりの高い海面へ、自分たちもほかの家族にならって、百合、薔薇、菊などをひと抱えにした花束を投げた。海暗という言葉を思い浮べるほど、海は黝ずんだ青さで、それをほとんど何の感情なく見つめていた。ただその海底の兄と、何か呼応するものが生まれるのを待っていた。
(「新潮現代文学 75 花闇・深い河」 新潮社 1981 p356 田久保英夫)
平成6年(1993)
○5月21日、毎日新聞朝刊社会面で大洋丸会のことが紹介されたところ、大洋丸の16ミリフィルムを保存していた神奈川県鎌倉市の主婦杉田操さん(70)が記事を読んで同会に連絡。コピーしたビデオを資料として寄贈した。7日の大洋丸総会では代表世話人の佐藤祐弘さん(74)が杉田さんから寄せられたフィルムを万感の思いで公開させていただく、とあいさつ。杉田さんがフィルムにまつわる話を披露した。
(「毎日新聞 42436」 1994.5.8朝刊 p20)