昭和7年(1932)
○一行が携帯する荷物の処置。往路第1船で会長の荷物1個紛失、以後は特に警戒し、往路第2船と帰路全員の荷物は問題なかった。ただし、往路第2船のロス上陸の際、かねて開封しないと約束されていた一行の荷物が、税関吏により大半開封を命じられ、交渉して先方が了解した頃には大部分の開封検査が終了していた。米国側は酒類を食料として携帯する場合は許可する方針であったが、日本監督団は独自に酒類の不携帯を決めた。ところが日本選手の酒類携帯が新聞に報道されたため、税関として職責上黙過できないとなった。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p276)