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大正10年(1921)
○(■「政府委託船大洋丸」で1節。)独乙の戦争賠償船として、日本は4隻の船舶の交付を受けた。これらの船は日本郵船が政府の委託を受けて独乙より日本に回航したが、その中で一番大きいのがカップフィニステル号(14458総トン)、次はクライスト号(8999総トン)、残り2隻は小さな船であった。一番大きな船であったカップフィニステルも、当然日本郵船が引き受けて運航すると思われたが、日本郵船では回航時の経験から、豪華船であっても不経済で、しかも航海上安定を欠きやすいとの理由で、引き受けることを断った。同船には高いボートデッキにあたるところに大きな石でできたスイミングタンクがあり、航海中船客が水浴できるようになっていた。また、食堂の天井が高く、気持ちの良いものであったが、それだけ船体の上部が重くなり、いわゆるトップヘビーであった。しかも同船は南米方面への定期航路に使うため、河川用に適するよう吃水を浅くしており、これらが安定性を不十分にしていた。姉妹船の1隻は地中海で安定を失って転覆沈没した。また、燃料の石炭消費も比較的多かった。これらにより、病院船や海上ホテルなどで使用する案も出たが、結局このような豪華船舶の使用は桑港線を持つ東洋汽船以外にないとして、高橋是清総理大臣・野田卯太郎逓信大臣から浅野社長に依頼があって引き受けた。浅野は同船の日本到着時から性能や欠点など十分研究していたため、対策が考えられ、桑港線に使用しても相当の利益をあげうるとの見通しもついていた。同船は大正10年3月政府(大蔵省)から委託され、横浜で受け取って長崎に回航、三菱造船所で改造と破損復旧工事を約30万円で施行し、船名も大洋丸と改称した。変更工事の主なものは、アンチローリングタンクを簡単な外部タンクに付け替え、船底バラストの増量、バラストタンクのポンプ等の機動性を高める調整など。その他、貨物積載時に重量貨物を下艙に、軽量貨物を上艙に積んでトップヘビーを防ぐなど、運用面で配慮することにした。かくて工事が完了し、大正10年5月14日長崎を出帆、まず上海に至り南下、マニラ経由香港で米国その他向け貨客を積んで同港発、桑港線初の航海に赴いた。(大洋丸写真2枚有)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p187-190)
大正10年(1921)
○当時大洋丸は航海上不安定で危険であると噂されていたので、浅野社長は安全に航海できることを世間に周知するため、荷主その他関係者への挨拶に、自ら同船に乗って香港へ向かった。その際、安田銀行の安田善次郎頭取も同行した。一行は、安田側は安田翁・令息善雄・井上権之助秘書の3人、東洋汽船側は浅野社長・さく子夫人・慶子令嬢・小松隆秘書役・大胡強参事の5人であった。大洋丸はベテラン東郷正作船長のもと、大正10年5月14日空船で長崎に出航し上海に向かった。呉淞(上海市)で当地の知名士多数を招待、安田翁と浅野社長が交々立って演説した。大洋丸は上海からマニラに直航、さらに5月23日香港に入り、それぞれの地で関係者多数を船内で歓待した。また、そのころ広東にいた支那革命の頭領である遜逸仙が、浅野・安田両氏を広東まで招待した。大洋丸は5月27日香港発、呉淞を経て6月1日長崎着、神戸・横浜を経て桑港線に就航した。浅野社長は安田翁に今後の事業の計画を説いて金融を依頼したと思われる。また、世間で問題視されていた大洋丸は、日本の大実業家と大金融家が定期航路をひと回りしたため、航海上不安のない船であると立証され、大きな宣伝となった。(集合写真1枚有)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p190)