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大正10年(1921)
○太平洋横断旅客船の今昔7、香港桑港航路開設。同航路開設10年後の1908(明治41)年には天洋丸13402総トン、地洋丸13426総トンを、また1911(明治44)年には三菱長崎造船所で建造された春洋丸13377総トンを、1916(大正5)年には太平洋郵船会社より買収したコレア丸11810総トン、サイベリヤ丸11790総トンほか1隻を、さらに1921(大正10)年には独乙よりの賠償船大洋丸14458総トンを加え、大いに名声を博した。けれども北太平洋航路は決して日本船の独擅場ではなく、日本郵船会社も東洋汽船会社も共に、米国船、英国船に対して受太刀の状態であった。そこで日本郵船は政府に対し、快速優秀船の建造の急務なことについて長文の建議書を提出した。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p16 高久虔一)
大正10年(1921)
○大洋丸の委託運航。旧ドイツ客船であったカップ・フィニステル(CAP FINISTERRE)は第一次世界大戦の賠償船として日本が取得したが、本船を回航してきた日本郵船は本船は喫水が浅く、トップヘビーであることを理由に運航を辞退してしまった。これには逓信大臣野村卯太郎も困ってしまい、病院船にしようとか、あるいは横浜の桟橋に繋船して海上ホテルにしようとか案が出たが、結局は時の総理大臣高橋是清らが浅野に依頼し、東洋汽船が大蔵省より運航を委託されることとなり、1921(大正10)年3月、横浜で受け取り直ちに三菱長崎造船所にて約30万円をかけて修理、改造して大洋丸と改名した。本船はボートデッキに大きな石でできたプールを有し、食堂も天井がかなり高かった。このトップヘビーの一因となる部分を改修することとなりまず取り扱いが困難なアンチローリングタンクをサイドタンクに交換したり、船底のバラストを追加した。また積み付けには重量物を下艙に積みトップヘビーを防止するように配慮することとした。修理が完了した大洋丸は大正10年5月14日、香港に向けて長崎を出帆した。浅野は本船が世上噂される危険な船ではないことを世間に知らせるために自ら同船に乗って香港に行くことにした。船長はベテラン東郷正作であった。東郷は大正4年アーネスト・ベントに代わって天洋丸の船長となりサンフランシスコ航路では初の日本人船長となった人である。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p80-81)
大正10年(1921)
浅野が本船について感慨深いこと、それはおそらくこの披露航海に安田銀行の頭取である安田善次郎が同行したことだろう。安田は単に浅野の、そして東洋汽船のパトロン的存在である以上に浅野とは懇意な間柄だった。コレア・クラス購入時の立替をしたり、セメント事業拡張には先に立って同意し、第一次世界大戦の好景気で大量建造した船の材料代価の社債を引き受けたのもみなこの安田であった。それだけに安田が大正10年9月28日に大磯の別荘で凶刃に倒れたことは東洋汽船のみならず大きな損失であった。安田銀行側から後に、東洋汽船の借金返済を迫られた浅野は「それやァ話がちがう。わしは故善次郎さんから二億円までは融通するとの遺言を受けている。いままで借りた金は一億円ばかりだからまだ半分は残っている筈だ」とうそぶいた。浅野の人となりがうかがえる。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p81)