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昭和16年(1941)
○開戦前夜の日本の北太平洋航路。日本は英国・米国に次ぐ世界第3位の船腹量を維持してきたが、1939年に起こった第二次世界大戦のため、世界に張り巡らされた日本の定期航路はこの年から翌年にかけ次々に閉鎖されていった。1930年代後半の北太平洋航路は、サンフランシスコ航路では浅間丸・秩父丸(1939年1月鎌倉丸と改名)・龍田丸・大洋丸と新鋭船を主体にそれぞれ2週に1便の定期を張り、華やかな客船黄金時代の真っ盛りであった。37年7月の本格的日中戦争の勃発から41年7月の南部仏領インドシナへの進駐にいたり、日本と英米の関係は決定的に悪化、ついに41年7〜8月にかけ北太平洋の架け橋が消えた。龍田丸・氷川丸・大洋丸はこのあと10月、引揚者輸送のため米国に行くが、これは定期航路ではない。また龍田丸が太平洋戦争開戦直前に米国に向け横浜を発った航海は、開戦を隠す偽装航海といわれた。このようにして太平洋戦争開戦の前夜には、北太平洋に活躍したほとんどの日本船は祖国に帰り、開戦準備に入っていた。
(「北太平洋定期客船史」 出版協同社 1994 p195-196 三浦昭男)
昭和16年(1941)
○太平洋横断旅客船の今昔18、引揚帰国者の輸送。第二次世界大戦勃発後も米国は中立を保ち、太平洋横断旅客船も平穏な航海を続けていた。しかし1941(昭和16)年7月ともなると、浅間丸がマニラから蘭領インド・バダビアに差し立てられ、当時抑留されていた独乙人婦女子および独乙外交官等6百余名を搭載、上海・長崎・神戸へ輸送したのをはじめとして、引揚帰国者の輸送が相次いだ。9月から11月にかけ、北米方面へは龍田丸・氷川丸・大洋丸が、内地引揚邦人輸送のために配船された。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p21 高久虔一)