新しい記事を「昭和17年(1942)」「昭和18〜20年(1943〜1945)」に1本ずつ追加しました。
昭和17年(1942)
○5月8日は大詔奉戴日で、船では早い夕食の膳におかしら付きで酒が1本ずつ出された。ちょうど食事が終わったとき、サロンのブザーが不気味な音をたて、「敵襲」と叫ぶ声がスピーカーから飛び出した。私は遠くでドーン、ドーンという、腹にこたえるような2発の爆発音を聞いた。咄嗟に敵潜水艦が出たなと思った。急いで船室に戻り、救命胴衣を着けて上甲板にかけあがってみると、九州の山々と五島列島の島影が5月の夕映えの空をバックにはっきりと見え、はるか水平線上に赤々と燃えて炎を吹きあげている大洋丸の姿を見た。デッキの手すりにつかまって船尾を見た。約100mの距離で難を免れたのであった。大洋丸は停船しているらしく、天をこがす炎が次第に近く見えてきた。18000トンの巨船には、シンガポールに向かう3000人ほどの軍関係者が乗っている。軍需物資も積んでいるはずである。吉野丸はジグザグコースで南に向かっていた。大洋丸の燃える火柱が、爆発音とともに一段と大きくなるのを見た。夜の闇が迫り、五島列島沖の暗い海面にただ一つポツリと光る大洋丸の燃える姿が、船尾の遠くにいつまでも見えていた。家に残してきた妻や母や子供は、もし明朝の新聞に「大洋丸沈没」のニュースが出たら、仏壇に燈明をつけて私の写真を飾ると思った。数日後に台湾の高雄に着くと、上陸する人に頼んで、無事航海をつづけていると家族にハガキで知らせた。大洋丸のことは検閲を考え、1行も書かなかった。そして、日本の領海内に敵の潜水艦が現れ襲撃されるようになったこれからの厳しい戦局を思わずにはいられなかった。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p不明 藤波健彰)
昭和18年(1943)
○昭和18年の暮れ近く、撮影済みのフィルムを持って、私は内地に帰った。南方ボケの私の頭と皮膚は、内地のきびしい冬の寒さに悲鳴をあげた。2年ぶりの対面で、家内が口にした最初のことばは、内地出発直後、五島列島沖で起こった大洋丸撃沈事件のことであった。家内は私が大洋丸に私が乗り込んでいるものと思い込んでいたので、「詳報がくるまで仏壇にあなたの写真を飾り、毎日朝夕お経をあげていましたよ。顔を見るまでは本当に後家さんになったのじゃないかと思っていました」といった。戦時下の家庭に、こんな話はどこにでもあったことだろう。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p252 藤波健彰)