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昭和16年(1941)
○昭和16年7月、当時第三艦隊参謀であった私は、東京転任を命じられた。開戦近い切迫した時期の陸上(人事局)勤務は不満だったが、9月下旬に軍令部第一部の立花少佐に呼ばれ、ハワイ軍港のスパイを命じられた。すでに日米両国は通商閉鎖状態で船の往来がなかったが、日本郵船の大洋丸が在日米国人の帰国のためハワイに向かう予定で、私はこの船に郵船本社の派遣事務員に化けて乗り込むことになった。また潜水艦の専門家である前島中佐が船医に化けて乗った。私たちの身分を知っていたのは、船長、事務長に船医、その他二三名の高級船員だけだった。船は10月20日午後横浜を出港。米本国に帰る数百名のアメリカ人たちが家族と共に乗っていた。進路を北にとって択捉島近くまで北上、それから東に向かったが、これは船長に対して海軍側から要請された航路で、後で思えばハワイ空襲部隊の航路にあたる。風向、気圧、船の動揺、給油予定地点を調べた。船が東進しアリューシャン群島とミッドウェー島とを結ぶ線の中間を過ぎ、東経165度あたりから南に下ってハワイ島を目指す頃になると、海は凪いできた。当時は米ソの輸送船がこの航路の近くを通っていると思われていたのに、航行中に一隻の船にも遭遇しないことは私を喜ばせた。これなら我が機動部隊は隠密のうちにハワイに肉薄できる。10月末の北洋は寒かった。今度の航海はやけに北を通るものだと船員たちも不思議そうに語っていた。曇天ながら14mの風が吹き、15000トンの大洋丸が10度も傾くほどだった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p24-25 鈴木英)
昭和16年(1941)
○11月1日未明、大洋丸はオアフ島の北方、約200マイルで米軍の哨戒機につかまった。哨戒機は頭上を旋回して南に去った。船が100マイル地点まで近接すると、米軍機が編隊を組んで近づき、大洋丸を目標に急降下し擬襲をおこなった。私は船橋から米軍の演習ぶりを眺め、なかなか上手だぞと思った。米軍の防禦戦法を「200マイルが哨戒線、100マイルで攻撃か」と判定しながら、私は敵の演習ぶりを視察し続けた。日本海軍の航空専門家が乗っているとも知らず、手の内を見せてくれるわい。それにしても一体日米は戦うであろうか。警戒は想像以上に厳重で、ホノルル港外で士官以下10名の米海兵が乗り込んできた。彼らのうち誰一人神経を尖らせている者はいなかった。ホノルルの港内を目指し微速で進んでいる大洋丸を、古い型の日本商船と軽視したのだろう。飛行機の哨戒ぶり・それに伴う編隊の擬襲・先ほど見た防潜網は、非常に厳しい警戒を始めていることを示すが、話しぶりではまだ一般の兵士にまでは及んでいないようだと思った。米側は大洋丸を桟橋の一番外側、つまり真珠湾に一番近いところに接岸させた。何という幸運、真珠湾が丸見えだ。船橋に立てば真珠湾を出入りする米艦艇が手に取るように見え、ロージャース、ヒッカム両飛行場、フォード島も指呼の間だった。大洋丸が古い大型船でデッキが高いのも、万事に都合がよかった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p25-26 鈴木英)
昭和16年(1941)
○こんなよい桟橋に大洋丸をつけたのは無気味であった。大洋丸の真横にイギリス駆逐艦が碇をおろしており、これで我々を監視するのかと前島中佐と私は語り合った。陸へ上がった船員には尾行がつくということで陸上での連絡は不可能に思え、一切の情報収集は船内でやることにした。船長室と弦門に直通電話を引いて高級船員に弦門を監視させるなど、盗聴防止にも十分注意した。これだけの準備をしてからホノルル領事館北(ママ)総領事に私の身分を打ち明けた。領事館からは在留日本人の引揚げ乗船の手続きで、頻繁に大洋丸に連絡が来る。その都度、領事館員を船長室に招いて、私は真珠湾軍港の情報を聞いた。話を聞いては船橋に行き、直接に目で確かめる。2日になって、日本潜水艦が真珠湾口に現れたと新聞に報道された。警戒が厳しくなりかねないので、ここで一切書き物を残さない方針を決めた。ところが領事館員は軍事専門家ではないので、すべてを記憶するというわけにはいかない。領事館から船に毎朝新聞が届いたが、この中にメモが挟んであった。米国税関の検査は、当方が積極的に新聞の端をパラパラと見せるとすぐOKになった。紙片に書かれた米艦艇の入港日時・隻数などは片端から記憶し、紙片は焼き捨てた。日本海軍が張っていた情報網からも領事館に情報が集まっていた。10月21日(大洋丸入港10日前)撮影の真珠湾の空中写真も届いた。末端のスパイと一切接触はせず、船の上で情報を総合することに努めた。大洋丸の甲板を歩きながら、私は丸見えの真珠湾を見直した。戦艦8・空母3・甲巡11など、私の推算は正確で、戦後に米国側で大きな問題になったほどだった。私は大洋丸の船上でこの数字を出すと、何度も何度も検討を繰り返した。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p26-27 鈴木英)
昭和16年(1941)
○ホノルル出港は4日午後の予定だったが、私は船長に明日5日の真珠湾が見たいと頼んだ。船長は理由を聞かず引き受けてくれた。積み荷作業が意識的に遅らされたが、荷役が1日くらい遅れて出航が延びるのは商船では珍しいことでもないらしく、米国側もそれほど注意を払わなかった。5日(日)早朝、私はとび起きると船橋から真珠湾を眺めた。わざわざ出港を延期させて日曜朝の真珠湾を見た理由は、真珠湾奇襲は「やるなら日曜」とすでに計画があったからだ。週末で泊地に帰投した軍艦はフォード島の周辺に思い思いに碇をおろし、軍港は全く静かな休養の朝を迎えていた。これでよし、彼らは日曜は確実に休んでいる。大洋丸は5日夕刻、ホノルルの桟橋を離れた。次第に船足を速めて、オアフ島の姿が遠くなるにつれ、私は大声を上げて喜びたい衝動をどうすることも出来なかった。公海上での米軍艦臨検を警戒して、私は重要なメモを残さなかった。書類のまま持ち帰るものはコヨリによって紐として使い、それも燃やしやすい場所に置いて万が一に備える慎重さだった。帰路は往路より南を走ったが、これも後に機動部隊の帰路となった航路である。大洋丸にはハワイを捨てて故国に帰る日本人一世二世が多数乗っていた。彼らの中には飛行場の格納庫建築に働いた者が多く、この人々から格納庫の屋根の構造なども詳細に聞くことができた。心配した米軍艦の臨検もなく無事11月17日に横浜に帰着、着慣れた事務員服を軍服に着替え、直ちに大本営に報告した。12月8日未明、淵田中佐の発した「奇襲成功」の無電、引き続いて続々と東京に報告されてきた真珠湾軍港壊滅の勝報を、私は海軍省で素知らぬ顔で聞いていた。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p27-28 鈴木英)