2015年03月17日

明治時代

明治29年(1896)
○淺野総一郎は世界的な海運業を志して明治29年49歳で東洋汽船会社を創立した。外国航路は国家的なものであるので、苦痛を忍んで経営を持続しなければならない。国家経済のためには損得は問題外であると考えた。欧州戦争の結果独逸より獲得した賠償船で、日本においては優秀巨船であるが、日本郵船が引き受けを拒絶したため、政府はその処置に窮していた。そこで淺野は海運界不振の折ではあるが、国家の体面から、進んで大洋丸の運行を引受けたのであった。
(「淺野総一郎」 片山春帆画・佐藤名川書 1924 1枚)

明治44年(1911)
○独逸は敗戦で、戦前所有の大船巨船はあげて獨潜水艦の沈めた連合国商船の賠償として没収された。しかし元来負ん気の強い独逸人であるので、平和回復以来今や既に大船隊しかも新造精鋭を擁するに至った。ハンブルグ自由港の造船所で大きなものでも13工場がある。明治44年8月、大洋丸を建造したブローム・ウント・フォスという有名な大造船所が、ハンブルグ、アルトナ両市境界辺のエルベ対岸にある。
(「欧米の港と腰弁の視た国々」 丸善 1928 p491 渡辺四郎)

明治44年(1911)
○ハンブルクの名所エルベトンネルは大洋丸建造と同年の明治44年に完成した。ハンブルク市と自由区とを連絡する交通路で、エルベ河底16mを通り長さ448m、高さ6米、両端はエレベータで人も自動車も上下する、わが関門トンネルの先駆である。
(「世界地名事典4」 平凡社 1950 p250 石井逸太郎)
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大正1〜9年(1912〜20)

大正3年(1914)
○大正3年夏の夜、早稲田の大隈邸で臨時閣議があった。そこで加藤高明外務大臣から、中国膠州湾にいるドイツの軍艦を日本海軍で追っ払ってくれというイギリスに対しどう返事するか相談があった。三国干渉でひどい目にあった日本を助けてくれたイギリスに酬いるよい機会で、イギリスを助けることにみなは賛成な様子。しかし大蔵大臣の私若槻礼次郎は、おいそれと賛成できない。大蔵大臣は戦費を調達しなければならない。先のことを考えると非常に苦しい。閣議は夜の12時に及んだ。しかし戦局が拡大してもドイツが日本まで攻めてきて日本が屈服することはあり得ない。そう莫大な戦費を要することはないということになって、私も最後には同意した。
(「古風庵回顧録」 読売新聞社 1975 p213-214 若槻礼次郎)

大正8年(1919)
○5月20日、郵船の諏訪丸で山本五十六は米国ボストン駐在のため横浜を出発した。米国国情研究のためであった。船内で演芸会があったが、日本人で誰も出場者がいない。するとこれにたまりかねてか、一人の颯爽とした日本青年が、現れたと見る間に、サロンの手摺りにアッと言う間もなく、誠に見事なフォームで逆立ちをした。拍手がわき起こった。次ぎに青年は大きな皿2枚をボーイから借りて両手に一枚宛載せ、前後左右上下に水車の如くに、振り回し、ついには両手に皿を載せたまま宙返りを何回も行ったのである。この青年こそ山本五十六少佐であった。大正10年5月5日、山本に帰国命令が下り、7月19日横浜着の大洋丸で帰朝し、直ちに北上の副長に補せられ、支那方面で活躍、12月1日、海軍大学校教官を命ぜられたのであった。
(「人間山本五十六」 光和堂 1964 p239 反町栄一)

大正9年(1920)
 賠償物件として船舶を取得するは平和条約第8編の規定する所にして、本邦も連合国の一員として当然これに参加するの権利を得、大正9年、カップフィニステレ(大洋丸)・クライスト(吉野丸)・ウェーゼル・メクレンブルヒ・ノルマニア(日高丸)・ビーレフェルト(光文丸)・大正10年に於いてウィトラム、合計7隻を取得した。
(「明治大正財政史 20」 財政経済学会 1939 p144)

大正9年(1920)
○11月9日、クライスト(Kleist)引渡完了、日本郵船の手によりて回航し、11月28日リヴァプール出発、大正10年1月23日横浜に到着せしが、到着後引き続き同会社に管理を委託することとし2月24日これが契約を締結したり。契約の条件は殆ど大洋丸と同様にして、その使用料は重量頓1頓につき1箇月金30銭を納付するもののとし、同会社においては本船を郵便定期航路横浜倫敦代船または逓信省命令航路横浜メルボルン線使用船代船として使用したり。しかして本船の船名は同会社の負担にて大正10年12月13日これを吉野丸と改称したり。
(「明治大正財政史 20」 財政経済学会 1939 p146)

大正9年(1920)
○11月10日、カップフィニステレ(Cap Finisterre)(大洋丸)引渡終了、日本郵船の手により回航し、12月18日リヴァプール出発、大正10年1月30日横浜到着、2月13日回航手続終了の上3月12日本船の管理を東洋汽船に委託を締結せり。
(「明治大正財政史20」 財政経済学会 1939 p145)

大正9年(1920)
○12月初旬、第1回賠償船の貨物船アレンスギルは、英国西南端ヘレザノンス港付近において座礁したので、日本政府はこれの賠償問題についても交渉を進めている。
(「東京朝日新聞 12426」1921.1.16 p3)
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大正10年(1921)

大正10年(1921)
○1月13日、我国へ分譲の元独逸汽船4隻中のクライスト号は、愈々上海発今明日中神戸着の予定であるが同船は総噸数8959噸、船長463呎3、幅57呎7、吃水35呎8という新式ソール船で、郵船香取丸と略同船である.取扱者郵船会社では、直にこれを、欧州航路の丹波丸にかえて定航につかせる予定。その来月中旬の初航には丹汝丸申込船客などで大満員の盛況だという.また第2船として目下来航中のカップフイニステレ号は現今我国最優良客船たる春洋丸を凌駕する巨船で総噸数14153噸、船長540呎、幅60呎53、吃水31呎2、1等汽船客実に404人、2等100人、特別2等I12人、合計616人を乗船できる。今月下旬か来月上旬同船が上海より横浜着の上、諏訪丸、伏見丸の両船と共に米航路に就く。
(「東京朝日新聞 12426」 1921.1.16 p5)

大正10年(1921)
○1月20日、我政府の取得独逸船中第1回航船クレイスト号上海より神戸経由横浜港に投錨予定の旨航主日本郵船会社に入電。なお第2回航船即ち我国第1の大型客船キヤプフイニステーレ号(総噸数14103噸速力16哩半、独逸南米定期船)は次に今17日英領海峡植民地新嘉波発、香港を経て直行、来たる27日横浜港に投錨の予定との旨入電した。
(「東京朝日新聞 12427」 1921.1.17 p5) 

大正10年(1921)
○1月27日、天洋丸以上の大客船カプフイニステレ号は、昨日午後7時香港から横浜第10号岸壁に到着した。同船は公式に逓信省より日本郵船へ帰属することに決定された。次に23日同港着の第1船クライスト号は、2月18日丹波丸代船として船長柴田信蔵氏、機関長小町谷栄作氏、事務長荒木忠次郎氏、川上公使一行を乗せて横浜港に着いた。
(「東京朝日新聞 12441」 1921.1.31 p5)

大正10年(1921)
○キャプフィニステレの運航を郵船会社は御免蒙るという。逓信大臣の野田卯太郎が淺野総一郎に「お前一つやってみてくれ」という。淺野は直ぐ横浜へ行って、機関室へ入った。シリンダーは非常に力が強い。パイプも強い蒸気が必要な時の余裕がある。独逸人なら分かるところを、船長が米人だった。翌日淺野は東洋汽船の船長と行き、バラスを入替え、水を抜いたら、傾いた船が平らになった。
(「父の抱負」 浅野文庫 1931 p42-47)

大正10年(1921)
○2月、クライスト(8959トン、1906年建造、NDL大西洋定期船)と、カップ・フイニステーレ(1万4503トン、1911年建造、ハンブルグ=サウス・アメリカ・ラインの南米定期船)のうち、日本郵船はクライストの使用は引受けが、カップ・フイニステーレは辞退した。本船が南米は、ラブラタ河の浅い喫水線用に造られた船で、運航上の問題があるとの理由だった。これには時の高橋是清首相や、野田卯太郎逓信大臣も困ってしまい、病院船にするとか、横浜港で海上ホテルにしてはどうかなどという案まで出た。結局こんな豪華船は、北太平洋航路も桑港航路を持っている東洋汽船しか使えないといわれ、浅野社長の決断で、同社が運航することになった。
(「豪華客船の文化史」 NTT出版 1993 p158 野間恒)

大正10年(1921)
○太平洋横断旅客船の今昔7、香港桑港航路開設。同航路開設10年後の1908(明治41)年には天洋丸13402総トン、地洋丸13426総トンを、また1911(明治44)年には三菱長崎造船所で建造された春洋丸13377総トンを、1916(大正5)年には太平洋郵船会社より買収したコレア丸11810総トン、サイベリヤ丸11790総トンほか1隻を、さらに1921(大正10)年には独乙よりの賠償船大洋丸14458総トンを加え、大いに名声を博した。けれども北太平洋航路は決して日本船の独擅場ではなく、日本郵船会社も東洋汽船会社も共に、米国船、英国船に対して受太刀の状態であった。そこで日本郵船は政府に対し、快速優秀船の建造の急務なことについて長文の建議書を提出した。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p16 高久虔一)

大正10年(1921)
○大洋丸の委託運航。旧ドイツ客船であったカップ・フィニステル(CAP FINISTERRE)は第一次世界大戦の賠償船として日本が取得したが、本船を回航してきた日本郵船は本船は喫水が浅く、トップヘビーであることを理由に運航を辞退してしまった。これには逓信大臣野村卯太郎も困ってしまい、病院船にしようとか、あるいは横浜の桟橋に繋船して海上ホテルにしようとか案が出たが、結局は時の総理大臣高橋是清らが浅野に依頼し、東洋汽船が大蔵省より運航を委託されることとなり、1921(大正10)年3月、横浜で受け取り直ちに三菱長崎造船所にて約30万円をかけて修理、改造して大洋丸と改名した。本船はボートデッキに大きな石でできたプールを有し、食堂も天井がかなり高かった。このトップヘビーの一因となる部分を改修することとなりまず取り扱いが困難なアンチローリングタンクをサイドタンクに交換したり、船底のバラストを追加した。また積み付けには重量物を下艙に積みトップヘビーを防止するように配慮することとした。修理が完了した大洋丸は大正10年5月14日、香港に向けて長崎を出帆した。浅野は本船が世上噂される危険な船ではないことを世間に知らせるために自ら同船に乗って香港に行くことにした。船長はベテラン東郷正作であった。東郷は大正4年アーネスト・ベントに代わって天洋丸の船長となりサンフランシスコ航路では初の日本人船長となった人である。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p80-81)

大正10年(1921)
 浅野が本船について感慨深いこと、それはおそらくこの披露航海に安田銀行の頭取である安田善次郎が同行したことだろう。安田は単に浅野の、そして東洋汽船のパトロン的存在である以上に浅野とは懇意な間柄だった。コレア・クラス購入時の立替をしたり、セメント事業拡張には先に立って同意し、第一次世界大戦の好景気で大量建造した船の材料代価の社債を引き受けたのもみなこの安田であった。それだけに安田が大正10年9月28日に大磯の別荘で凶刃に倒れたことは東洋汽船のみならず大きな損失であった。安田銀行側から後に、東洋汽船の借金返済を迫られた浅野は「それやァ話がちがう。わしは故善次郎さんから二億円までは融通するとの遺言を受けている。いままで借りた金は一億円ばかりだからまだ半分は残っている筈だ」とうそぶいた。浅野の人となりがうかがえる。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p81)


大正10年(1921)
3月、当帝国海事協会において検査を施行し、船級登録をするはずのキャップフイニスター号はすべて独逸式で、船内中央部に交際室、児童遊戯室、キエンダーガアデンが装置され、客室は五階で、五階より下層に通ずるエレベータを備え、上甲板には広い運動場、水泳場などがあって、内部の設備が完全であること、真に理想的である。
(「海事新報 328」 1921.4.1 p1)

大正10年(1921)
3月、一日に石炭400噸もいる不経済な船は、引き受けられないと日本郵船が拒絶し、政府も困り抜いていた時、浅野総一郎は横浜に出掛けて大洋丸の機関室に入り、そこにいた日本郵船の機関長から種々説明をうけた。総一郎の素人研究が三日も続いた時、機関長は「私の会社の重役は、只の一人も機関室まで入って来て研究した人はありません」と感心した。「サイベリヤ、コレヤの両船は、機関室のパイプが、13吋あるけれども、250噸しか石炭をくわない。大洋丸は11吋のパイプで400噸いるとはおかしい」と考えた総一郎の常識眼に誤りはなかった。大洋丸の今日の燃料は、僅かに一日175噸で足りている。
(「浅野総一郎」 愛信社 1923 p94 浅野秦治郎・浅野良三)

大正10年(1921)
○(■「政府委託船大洋丸」で1節。)独乙の戦争賠償船として、日本は4隻の船舶の交付を受けた。これらの船は日本郵船が政府の委託を受けて独乙より日本に回航したが、その中で一番大きいのがカップフィニステル号(14458総トン)、次はクライスト号(8999総トン)、残り2隻は小さな船であった。一番大きな船であったカップフィニステルも、当然日本郵船が引き受けて運航すると思われたが、日本郵船では回航時の経験から、豪華船であっても不経済で、しかも航海上安定を欠きやすいとの理由で、引き受けることを断った。同船には高いボートデッキにあたるところに大きな石でできたスイミングタンクがあり、航海中船客が水浴できるようになっていた。また、食堂の天井が高く、気持ちの良いものであったが、それだけ船体の上部が重くなり、いわゆるトップヘビーであった。しかも同船は南米方面への定期航路に使うため、河川用に適するよう吃水を浅くしており、これらが安定性を不十分にしていた。姉妹船の1隻は地中海で安定を失って転覆沈没した。また、燃料の石炭消費も比較的多かった。これらにより、病院船や海上ホテルなどで使用する案も出たが、結局このような豪華船舶の使用は桑港線を持つ東洋汽船以外にないとして、高橋是清総理大臣・野田卯太郎逓信大臣から浅野社長に依頼があって引き受けた。浅野は同船の日本到着時から性能や欠点など十分研究していたため、対策が考えられ、桑港線に使用しても相当の利益をあげうるとの見通しもついていた。同船は大正10年3月政府(大蔵省)から委託され、横浜で受け取って長崎に回航、三菱造船所で改造と破損復旧工事を約30万円で施行し、船名も大洋丸と改称した。変更工事の主なものは、アンチローリングタンクを簡単な外部タンクに付け替え、船底バラストの増量、バラストタンクのポンプ等の機動性を高める調整など。その他、貨物積載時に重量貨物を下艙に、軽量貨物を上艙に積んでトップヘビーを防ぐなど、運用面で配慮することにした。かくて工事が完了し、大正10年5月14日長崎を出帆、まず上海に至り南下、マニラ経由香港で米国その他向け貨客を積んで同港発、桑港線初の航海に赴いた。(大洋丸写真2枚有)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p187-190)


大正10年(1921)
3月、カップフィニステルは、高いポートデッキに、大きな石で出来たスウイミング・タンクがあり、航海中船客が水浴できるようになっていた。また食堂も天井が高く、これや丸の食堂の二倍以上もあり、はなはだ気持のよいものであったが、それだけ船体の上部が重くなり、いわゆるトップヘビーであったのである。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p188 中野秀雄)

大正10年(1921)
4月、カップフィニステルを政府(大蔵省管轄)から委託されたので、東洋汽船は同船を横浜で受取、直ちに長崎に回航し、三菱造船所において太平洋横断に必要な客船としての改造と破損復旧工事を、約30万円の支出で施行し船名も大洋丸と改名した。変更工事の主要点は、(1)独逸造船所が造った取扱い困難なアンチローリングを取外し、簡単なサイドタンクに模様替えした。(2)船底のバラストをふやして重くした。(3)バラストタンクのポンプ、バルブ、パイプ等を機械的に使えるよう調整した。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p188 中野秀雄)

大正10年(1921)
4月25日、大洋丸検査のためべリス氏長崎に出張す。5月10日、ベリス氏大洋丸の検査ほぼ終了して帰京す。5月13日、第12回船級委員会開催す。片山技師長より船級証書の記入方、検査証明書の発行方等につき審議す。べリス氏より大洋丸の船級を承認することに決定す。
(「海事新報 330」 1921.6.1 p38)

大正10年(1921)
5月、大洋丸は当時、航海上不安定で危険であると噂されていたが、浅野社長はそんな船ではないといって、安全に航海できる船である事を知らせることを目標に、荷主や関係者に挨拶する必要から、自ら大洋丸に乗って香港まで行くことにした。そこで金融上世話になっている安田銀行の安田善次郎頭取に、同行を誘ったところ、快諾したので同行することになった。一行は、安田翁と令息善雄、井上権之助秘書の三人、浅野社長、さく子夫人、慶子令嬢、小松隆秘書、大胡強参事の五名であった。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p190 中野秀雄)

大正10年(1921)
○当時大洋丸は航海上不安定で危険であると噂されていたので、浅野社長は安全に航海できることを世間に周知するため、荷主その他関係者への挨拶に、自ら同船に乗って香港へ向かった。その際、安田銀行の安田善次郎頭取も同行した。一行は、安田側は安田翁・令息善雄・井上権之助秘書の3人、東洋汽船側は浅野社長・さく子夫人・慶子令嬢・小松隆秘書役・大胡強参事の5人であった。大洋丸はベテラン東郷正作船長のもと、大正10年5月14日空船で長崎に出航し上海に向かった。呉淞(上海市)で当地の知名士多数を招待、安田翁と浅野社長が交々立って演説した。大洋丸は上海からマニラに直航、さらに5月23日香港に入り、それぞれの地で関係者多数を船内で歓待した。また、そのころ広東にいた支那革命の頭領である遜逸仙が、浅野・安田両氏を広東まで招待した。大洋丸は5月27日香港発、呉淞を経て6月1日長崎着、神戸・横浜を経て桑港線に就航した。浅野社長は安田翁に今後の事業の計画を説いて金融を依頼したと思われる。また、世間で問題視されていた大洋丸は、日本の大実業家と大金融家が定期航路をひと回りしたため、航海上不安のない船であると立証され、大きな宣伝となった。(集合写真1枚有)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p190)


大正10年(1921)
5月14日、大洋丸はヴェテラン東郷正作船長の操縦のもとに、空船で長崎を出航、上海に向かった。呉淞着の上、同地の知名の士多数を大洋丸に招待し、席上安田翁と浅野社長が交々立って演説、一同に感銘を与えた。大洋丸は上海からマニラに直行、マニラから5月23日香港着。両地とも多数の関係者や外人を船内に招いて歓待した。その頃支那革命の頭領孫逸仙が広東にいて、両翁を広東に招待、両翁は広東で孫逸仙と会談。大洋丸は5月27日香港発、呉淞を経て、6月1日長崎着。それから神戸、横浜を経て、桑港線に就航した。この間さく子夫人は、途中健康を害していたにもかかわらず、浅野社長を助け、船内の起居、外来者の応対はいうにおよばず、孫逸仙訪問の際も病苦をおして、一行の世話をしたという、涙ぐましい物語があるのである。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p188 中野秀雄)

大正10年(1921)
5月16日、東洋汽船会社使用の大洋丸は日・米航路に就航するその第一歩として、香港へ向かう途次、16日午後6時その巨体を上海呉淞沖へと予定時刻に現わした。
(「加越能時報 351」 加越能時報社 1921.6.23 p4)

大正10年(1921)
○5月16日、上海呉淞沖の船内を隈なく観覧。装飾その他頑丈なる組立は遺憾なくドイツ的色彩。最上A甲板には図書室、遊泳場、体操場、無線電信室あり。庭園に古風の藤椅子を並べ、花木は芳香を放ち、色ガラスは落着がある。遊泳場は広く体操場に電気仕掛木馬がある。B甲板は子供部屋、暗室及酒保があり、婦人室は清楚・美麗、喫煙室は最も装飾と構造の美あり、大理石の女神・男神の彫刻がある。
(「加越能時報 351」 加越能時報社 1921 p3 高波紅波)

大正10年(1921)
11月、独逸代償船は、在英我代表が8隻受領。二客船キヤプフインステレ号(14,500トン)は東洋汽船に、クライスト号(8,959トン)は日本郵船に、それぞれ二箇年貸下げ、貨物船アンスギール号(6,436トン)は公式受領前に沈没したので棄権。ビールフェルド号(4,460トン〉とノルマニア号(3,229トン)の二貨物船は、前者は神戸海運会社に二箇年貸下げのため浦賀船渠で修理中、後者は室蘭栗林商船会社に同期間貸下け実約が成立した。そのほかはいずれも貨物船のアペンニア号(5,753トン)、メクレンブルヒ号(3,461トン)、ウニーゼル号(1,028トン)である。
(「海事新報 335」 1921.11.1 p22)

大正10年(1921)
○甲板は八層にしてエレベーターに依り昇降することとなり、大食堂は壮麗にして天井高く玻璃を張り詰め噴水池の設けもあり採光通風間然する処なく、処々に食卓を配置し同行者又は一家族相団欒して卓に就の便あり、台北鉄道ホテルの食堂などの及ぶ処でない一等室は寝室応接室女中部屋荷物室の四室に区分されてある、二等室の設備は台湾航路船の一等室に優ること万々である、此他船内の設備を挙ぐれば各室に於ける電話談話室、食堂(以上男女別)喫煙室、児童遊戯場、奏楽場、遊泳場、無線電信室、理髪所、写真現象室、図書室、洗濯所、病院、応急用石油発電機、電話交換室、電気応用料理機等であるが注目すべきは風波烈しき時船体の動揺を制止する設備と、船内各室の空気を更新するオゾン発生機とである。
(「台湾日日新報」 1921.05.18-19)

大正10年(1921)
○独逸よりの代償船で今日までに受領したものは総計8隻即ちキャプフインステレ号、クライスト号、アンスギール号、ビールフエルド号、アンベンニア号、メクレンブルヒ号、ノルマニア号、ウエーゼル号の47829屯、未受領は138415屯に決定した。ただアンスギール号は公式受領前に沈没したので棄権、日本郵船の手で回航したキヤプフインステレ号は大洋丸と改称して東洋汽船に、クライスト号は日本郵船にそれぞれ二箇年期間を以って貸下げられた。
(「海事新報 335」 帝国海事協会 1921.11.1 p22)

大正10年(1921)
6月、浅野社長夫妻は、支援者安田善次郎やその家族と、日本から香港まで乗船してみせて、世間に大洋丸は安全な船だということを印象づけた。このことは、大実業家と大金融家が一緒に乗った船だということで、東洋汽船のよい宣伝になった。構造上の問題点は、すぐに三菱長崎造舶所で矯正され、運航もキメ細かな積載をして、安全性が配慮された。
(「豪華客船の文化史」 NTT出版 1993 p15 野間恒)

大正10年(1921)
○6月、処女航海に安田さんを引っ張り出して、上海から香港、マニラと回った。船の中で安田さんと、不景気で誰も仕事をしないから、二人で大いに仕事をしようではないか、という相談をした。安田さんは俺に、二億までは金を出す、これは預金者に少しも迷惑をかけずに出せる金だから心配せずに使いたまえ、と言われた。
(「稼ぐに追いつく貧乏なし」 東洋経済新報社 1998 p188 斎藤憲)

大正10年(1921)
○淺野総一郎は、船が充分に航海に耐える優秀船であることを見極めたが、しかし世間は安全だと思わない。彼は一計を案じ、銀行王安田善次郎を誘って、大洋丸と名付けたこの船で、上海まで初航海することにした。用心深い安田善次郎が乗ったとなれば、安全性を疑う者はいなくなるだろう。大正10年5月14日、安田と総一郎を乗せた大洋丸は長崎を発して、上海、マニラ、香港、広東を回る。この航海には妻のサクや娘の慶子も一緒だ。広東では広東政府を樹立して間もない孫文とも会った。大洋丸の無事航海は、予想どおり世間の注目を浴びた。悲劇は、それからまもなく起きた。9月29日、安田善次郎が暴漢に刺殺されたのだ。
(「その男、はかりしれず」 サンマーク出版 2000 p247 新田純子)

大正10年(1921)
6月、大洋丸処女航海時、浅野社長に金融王安田善次郎が同行したが、安田は単に浅野のパトロン的存在である以上に懇意な間柄であった。「これあ丸」購入時に立替えをしたり、セメント事業拡張には先に立って同意し、第一次世界大戦で大量建造した船費の社債を引き受けた。それで安田が、同船航海直後の大正10年9月28日大磯の別邸で、寄付強要の男の凶刃に倒れたことは、浅野の大損失であった。後に安田銀行側から東洋汽船の借金返済を迫られた浅野は「それやァ話がちがう。私には善次郎さんから二億円までは融通する遺言があった。いままでの借金は一億円ばかりだから、まだ半分は残っている」といつた。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 海運船舶部会 1987 p81 横浜編纂チーム)

大正10年(1921)
○東洋汽船は政府より大洋丸の管理使用を委託され、大正10年5月より桑港航路に加入させた。同船は元独逸ハンブルク南米汽船会社の所有であって、Cap Finistereと称し、独逸南米航路に使用せられ、結構壮麗を極めた。特に熱帯地方航行のため、水泳場の設備あり客船として風評すこぶる佳良である。
(「神戸海運50年史」 神戸海運業組合 1923 p278)

大正10年(1921)
○欧州大戦が大正4年に始まると太平洋汽船会社が桑港航路を廃止したので、我社はその使用船これや丸、さいべりや丸、ペるしや丸の3隻を買収した。大正10年に政府から独逸賠償船キャップフィニスター号の運航委託を受け、これを大洋丸と命名し、天洋丸、春洋丸、これや丸、さいべりや丸、大洋丸の計5隻で桑港航路を経営した。
(「我社各航路ノ沿革 社外秘」 日本郵船貨物課 1932 p540)

大正10年(1921)
○7月、ワシントンに駐在していた山本五十六に海軍省から帰国せよとの命令が出た。二年間のアメリカ滞在で、山本が得たものは大きかった。残念なのはビリー・ミッチェルの爆撃実験の直前に帰国することである。出来れば自分の目で飛行機による軍艦の爆撃がどのようなものであり、どれほどの威力を発揮するものかたしかめておきたかった。ワシントンを発った山本五十六は、7月上旬桑港で大洋丸に乗船した。
(「真珠湾攻撃その予言者と実行者」 文芸春秋 1986 p57 和田頴太)

大正10年(1921)
○5月5日、山本五十六中佐は帰朝を命ぜられ、横浜到着は7月19日であった。
(「山本五十六・その昭和史」 秀英書房 1979 p81 楳本捨三)

大正10年(1921)
○第1回の米国生活から帰国した時、山本はすでに、航空軍備の将来性について、徹底した考えを持ち、石油無くして海軍無し、航空軍備に眼を開けと言っていた。
(「山本五十六」 新潮社 1964 p66 阿川弘之)

大正10年(1921)
○大正10年の夏の終わり、僕は友人山田珠樹と、ハンブルクの海岸通りで、若いドイツ人に出会った。青年は第一次大戦前、日本に住んで、山田の父親が重役だったドイツの薬品の会社に勤務していたので、山田もその青年を知っていたのだ。大戦が始まると青年はドイツ軍に召集されて、欧洲の各地に転戦したが、祖国の敗北後また元の商会に勤め、今はここの支店で働いているのだった。青年は商会のランチが一隻自由になるといって、二人を港見物に連れていってくれた。ランチは百トンほどの美しい船だった。欧州大戦終結のためのヴェルサイユ平和条約が決定して聞もない頃だったから、ハンブルグ港内には、すでに戦勝の国々に引渡すことに決まったドイツ商船が2、30隻空しく浮かんでいた。悲しい壮観だった。もっとも大きいのが、六万トンのビスマルク号で、それに続く四万トン、三万トン、日本に引渡してから大洋丸となった一万トンの船もその中に交っていた。ドイツ青年は撫然としてその巨船群を眺めていたが、やがて「もう今は、この船団はみんなドイツのものではない。あれは英国へ、それは米国へ、これは日本へ。もうわれ等は一隻の船も持っていないのです」とつぶやいているうちに、青年の両眼から、しきりに涙が流れ、彼はうなだれて、鳴咽した。当時、われわれは英米仏と結んでドイツの敵となった国の国民だったが、目の前に祖国の悲運に泣く若き愛国者を見て、悲しみを分かつ想いだった。
(「凡愚問答」 角川新書 1956 p105 辰野隆)

大正10年(1921)
1月、カップフィニステルは、独逸で南米ブエノスアイレス方面への定期航路に使うため、河川用に適するように、吃水を浅くしていたので、安定性を欠いていた。その姉妹船の1隻は地中海で安定性を失って、転覆して沈没したとの話もあった。また一方燃料の石炭消費も多く、到底経済船とはいえなかった。
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p188 中野秀雄)
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大正11年(1922)

大正11年(1922)
○大洋丸と、CPLのエンプレス・オブ・オーストラリア(21,861噸)という独逸の有名客船二隻が、太平洋で別々の船主のもとで運航された。後者はハバグの南米線用に計画された客船テルピッツであるが、大戦で工事中断。戦後に完成、賠償として英国にわたり、CPLが払い下げた。この船は独逸勝利の暁には、ビルヘルム二世の訪英時のお召し船に予定され、船客設備の豪華さは太平洋では群を抜いていた。
(「豪華客船の文化史」 NTT出版 1993 p158 野間 恒)

大正11年(1922)
○当時太平洋航路では、東洋汽船のかっての豪華船天洋丸と春洋丸(1万3千トン、14.5節)、大洋丸(1万4千4百トン最高速力16.62節)が運航していたが、米国パシフィック・メイル社のプレジデント型優秀船(1万4千トン17節)5隻、カナダのエンプレス型優秀船(2万トン)2隻の配船により、日本の低速の貨客船は強い圧迫を受け、危機的状態に陥って行った。
(「海運業の経営と技術」 日本経済新聞社 1982 p72 高柳 暁)

大正11年(1922)
○4月、ベストセラー小説「地上」の印税で、島田清次郎が外遊する船は、日本郵船の大洋丸である。夫の狂暴な振る舞いで、疲労の極にあった新妻の豊子は、その日が変更しないことを願ったが、彼女の次兄は、越中島の高等商船を出た日本郵船の機関士で、郵船の船はめったに出港の日時を変更しないことを知っていた。
(「天才と狂人の間−島田清次郎の生涯」 河出文庫 1994 p148 杉森久英)

大正11年(1922)
○私が高校生活を送った石川県七尾市の出身である杉森久英さんの直木賞作品「天才と狂人の間」には、金沢を舞台にしたベストセラー小説「地上」を書いた島田清次郎が、大洋丸で横浜から世界一周に旅立つところが描かれている。
(「読売新聞 43679 金沢/富山版」 1997.11.30日刊 p23 深井人詩)

大正11年(1922)
○WWT終結後、各国が競って太平洋海運を強化。競争激化により東洋汽船は苦境に追い込まれた。T11.09.29株主総会で浅野社長陳述。「桑港線については、相手は当社の船より1日早く出帆、2〜3日も早く入港する。よって、客も荷物も船室および容積が半分にも満たない有様。相手の大型船は当方より3ノット速いので、太平洋を3〜4日速く渡れ、船も新しいから、今の日本の商船会社では太刀打ちできない。相手は米政府・船舶院の船であり、アメリカ国家と競争しているようなもの。政府の力で、2.5万〜3万総トンの船を、シアトル・タコマの方へ3隻、桑港の方へ3隻回していただきたいと思っている。」ただし「ホノルルに寄る当方は3等客は案外減らない。」
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p185)

大正11年(1922)
当社としても一生懸命であった。桑港線の各船は機関を調整して概してシー・スピードを16浬以上にしていた。左表が実際の航海速力である。
 大洋丸:3390・8.17.52・16.15/2090・5.8.53・16.21
 天洋丸:3394・8.23.18・15.76/2096・5.16.16・15.38
 春洋丸:3390・8.20.27・15.96/2092・5.3.39・16.92
 これや丸:3394・8.13.38・16.50/2093・5.6.12・16.58
 さいべりあ丸:3390・8.20.45・15.94/2102・5.8.10・16.40
 (数値:横浜ホノルル間距離・航走日時・1時間平均速力/ホノルル桑港間距離・航走日時・1時間平均速力)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p186)
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大正12〜14年(1923〜25)

大正12年(1923)
○6月23日、大洋丸に久邇宮殿下が乗船。その時淺野総一郎が船長役で、妻サクが運転の舵をとっている写真を、殿下にご覧いただいた。
(「淺野総一郎」 片山春帆画・佐藤名川書 1924 17項目)

大正12年(1923)
○浅野は、天洋丸、地洋丸、春洋丸、大洋丸らが横浜を出帆する時は、必ず人力車で訪船して見送っていたという。また令嬢が嫁いだときには、それまでの衣装を全部船上公演用にと寄付した。
(「旅客船 210」 日本旅客船協会 1999.11 p9 野間恒)

大正12年(1923)
○関東大震災時の救助活動と被害。1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災で横浜市内の諸官庁が焼け、通信機関が麻痺したため、横浜港に停泊している船舶の無線電信機を用いて災害地外へ電信を打った。これらの情報は対米通信用に設けられた磐城無線電信局へ送られ、局長が直ちに英訳してホノルルやサンフランシスコへ送信され、大震災のニュースが世界に伝わった。救助活動には大洋丸なども活躍し、「海運興国史」によればこの救助活動にあたった邦船は96隻ともいわれている。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p82)


大正12年(1923)
○9月、りおん丸他が震災後の2日から8日に、横浜港からの輸送人員は22000人。海軍が輸送した避難者36898人、便乗者乗船23500人、鉄道省連絡船の乗船人員は7900人。私設船無料輸送人員として大洋丸が9日、清水港へ2500人を輸送した。
(「大正大震火災誌」 神奈川県警察部 1926 p471)

大正12年(1923)
○日本郵船社員及び会員属員の家族は9月15、16日頃横浜発の大洋丸で神戸に輸送し、社費で、当分住居生活の途を講ずるから、至急横浜港停泊中のこれや丸に来船のこと。ただし東京横浜方面の社員と事情ある者はその限りにあらず。これや丸の出航は、新山下町埋立地グランドホテル横か、イギリス波止場である。日本郵船社告。
(「東京日日新聞 16878」 1923.9.16日刊 p4)

大正12年(1923)
○9月9日、北米から急行した大洋丸は、清水行避難者2550人、神戸行250人、合計2800人を乗船し、9日横浜を出港し、17日には再び横浜に帰港し、さらに清水行避難者1828人、神戸行445人、合計2273人を乗船、横浜港を出港した。
(「海事参考年鑑 大正13年版」 有終会 1924 p260)

大正12年(1923)
○大洋丸は、北米から横浜に急行、罹災民清水行2550名、神戸行250名、計2800名を搭載して、9日横浜発、両地にて罹災民を陸揚し、17日再び横浜に帰港。焼跡桟橋に繋留、更に罹災民清水行及神戸行2273名を搭載して、20日横浜を出航、震災後桟橋に繋留した第一船である。横浜港は、震災のため荷役不能となったので、大洋丸は、北米積横浜揚貨物は全部、神戸にて陸揚。25日神戸を出航、15日を経て、北米航路に就航した。
(「横浜市震災誌4」横浜市役所 1927 p373)

大正13年(1924)
○大正13年11月、約3週間ドイツの工業状態を視察、12月3日ロンドンを経由して、10日ニューヨークに着き、5週間アメリカとカナダを旅行し、1月15日サンフランシスコ出帆の大洋丸によって2月1日横浜に帰り着いた。
(「近藤記念海事財団講演 2」 同財団 1924 p4 加茂正雄)
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大正15年(1926)

大正15年(1926)
○客船隊、日本郵船へ移る。第一次世界大戦後の海運界は世界経済の不況を受けて不振を続けていた。日本郵船や大阪商船などは大型船を引き揚げて打撃を避けたが、多くの航路を持たない東洋汽船は老朽船に鞭打って対抗せざるを得なかった。新船を建造しようにも安田善次郎の突然の死で東洋汽船は資金源を断たれていた。安田の死後に保善社専務理事となった結城豊太郎は、安田銀行の近代化・組織化を最優先させ、海運業への新規融資どころか、滞貸の速やかな回収を計画した。このため東洋汽船では安田銀借入金の肩代わりを第一銀行に依頼する案さえ検討された(杉山和雄『海運業と金融』海事産業研究所編による)。政府は多年巨費を投じてきた桑港線を破棄するのは体面上忍びないとの見解で、海運界の反対論にもかかわらず当線の補助を決定した。ただ、東洋汽船の実情では路線の維持が困難とみられ、日本郵船との合併案に活路を見出した。郵船は、東洋汽船の陸上財産と貨物船を除き、桑港線・南米線の営業権と使用船8隻、委託船大洋丸とその使用権を譲り受けることになった。大正15年2月16日、浅野社長と郵船の白仁社長との間で合併準備契約書の調印が行われ、3月10日合併が終了した。ここに、明治31年竣工の日本丸により開始された東洋汽船の客船サービスは、28年目にしてピリオドを打った。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p83-4)


大正15年(1926)
○5月、日本郵船は東洋汽船との合併で大蔵省より委託船大洋丸と吉野丸の払下を受け、桑港線の業務を、天洋丸、春洋丸、これや丸、さいべりや丸、楽洋丸、安洋丸、墨洋丸、大洋丸で開始した。
(「五十年史」 日本郵船 1935 p350)

大正15年(1926)
○5月15日、欧州大戦後不況のため、東洋汽船の桑港航路は経営困難となり、遠洋航路受命船として失格。逓信大臣安達謙蔵氏の斡旋で、東洋汽船は第二東洋汽船を設立し、日本郵船と大正15年5月15日、合併。桑港航路と南米西岸線の営業権及使用船を日本郵船に譲渡した。当時大洋丸は政府所有船で運航委託中であったが、昭和4年5月4日、郵船で払い下げを受けた。
(「我社各航路ノ沿革 社外秘」 日本郵船 1932 p540 郵船貨物課)

大正15年(1926)
○8月、その頃飛行機はなく、アメリカに行くのに船で17日かかった。23歳の私は、初めて日本を離れてアメリカに旅立った。ワシントンの日本大使館づめとなった夫とともに姉が渡米することになったので、姉一家と共に大洋丸に乗り込んだ。大洋丸は当時としては大きな船だったが、豪華船というにはほど遠かった。
(「太陽 95」 講談社 1971 p67 石垣綾子)
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昭和1〜5年(1926〜30)

昭和3年(1928)
○3月27日、陸軍騎兵大尉・栗林忠道(38歳)は大洋丸に横浜から乗船、軍事研究のために渡米した。ハワイ経由で4月13日サンフランシスコに到着した。
(「「玉砕総指揮官」の絵手紙」 小学館文庫 2002 p7 吉田津由子)

昭和3年(1928)
○遠洋汽船船賃ホノルル港より各地への汽船船賃以下の如し。日本郵船会社(ホノルル出張所、マーチャント街)所属船 本航路は、大洋丸、天洋丸、春洋丸、コレヤ丸、サイベリア丸就航。ホノルル横浜間(片道)1等232ドルは「大洋丸」・天洋丸・春洋丸。1等161ドルはコレア丸・サイベリア丸。2等は119ドル(大洋丸を除く)。2等139ドルは「大洋丸」。2等B101ドルは「大洋丸」。3等は55ドル(各船同様)備考:上は戦時税を含むものにして子供は満2才より10才までを半額とし2才以下は全額の10分の1、10才以上は全額(各等共)。3等の場合は全額55ドル、半額27ドル、5才以下5ドル10セントと定む。
(「布哇年鑑1929年度」 日布時事社 1929 p133)

昭和4年(1929)
○3月29日、午後1時5分横浜臨港線行にて東京発車。水上署の旅券検査後、大洋丸の百三十一号室に乗船。一同葡萄酒の杯を上げ見送の方々下船。午後三時出帆、出帆後十四五歳の男子密航発見。小艇呼寄せ送り返し二時間空費す。4月3日毎夜タキシード着用、食卓に出る。夜8時活動写真あり。米大陸、布哇、水泳の場面など見る。4月4日夕食後右舷甲板に舞踏会あり。船内には電力各種の運道具、遊戯品備付あり、無聊を感ぜず。通話出来れば面白からんに残念なり。東南風強く吹き浪高けれど不快なく、阿呆鳥船に数多従い来るを見る。
(「遊行録」 豊島半七 1930 p1-4 豊島半七)

昭和4年(1929)
○10月、日本郵船が東洋汽船継承当時、北方航路ではCPSが優秀客船を動かし、競争力に勝っていた。郵船使用船はいずれも相当船齢を加えていたので、浅間丸、新田丸、秩父丸の3船を建造した。桑港線には新船浅間丸が就航、同線の旧船さいべりや丸が昭和4年9月沙市線へ転配、同じく大洋丸は昭和4年10月、自由船となった。
(「我社各航路ノ沿革 社外秘」 日本郵船 1932 p542−543 郵船貨物課)

昭和4年(1929)
○独逸の賠償支払の初期に、各国は沢山の船舶を引受けました。我国では、まずCap Finistere号を受取り、東洋汽船会社に貸付け、貸付料を収受しました。同社ではこれを大洋丸と改称し、米国航路に就航しました。皆様よくご存知のあの大洋丸でございます。東洋汽船が日本郵船と合併後は日本郵船に貸付けていましたが、大蔵省は昭和4年5月に同船を郵船に譲渡し、その代金は賠償金特別会計に入れました。次に受取ったKleist号も、郵船に貸付け、吉野丸と改称されましたが、同じく昭和4年5月、日本郵船に譲渡しました。
(「日独文化講演集7」 日独文化協会 1931 p24 大竹虎雄)

昭和4年(1929)
○昭和4年、秩父丸17500トン、浅間丸16900トン、竜田丸16900トン、この三隻の出現を見るまでは、大洋丸14400トンが、日本最大巨船であった。
(「現代の優秀客船」 大阪宝文館 1931 p20 木越 進)

昭和5年(1930)
○1月、横浜から大洋丸で出航した藤田嗣治・ユキ夫妻はアメリカを経てパリに戻った。半年ぶりのパリは、日本への初帰国で傷ついた心を癒してくれるはずだった。だが、見慣れた街の風景は様子が違っていた。20年代、繁栄を謳歌したフランスにも経済恐慌が波及、絵画の値段が暴落し、画商は次々に店をたたんだ。藤田も金策のために個展を開いたが、半分が売れ残った。自動車を売り払い、モンスーリ公園そばの豪華なアトリエも手放し、引っ越したのはラクルテル街の小さなアトリエだった。
(「藤田嗣治「異邦人」の生涯」 講談社 2002 p148 近藤史人)

昭和5年(1930)
○処女航海の氷川丸は米国から横浜、神戸、門司、上海を経て、香港に昭和5年7月12日未明入港、加拉丸が桟橋に、大洋丸はブイに繋留していた。ともに日本郵船の船である。氷川丸は5月13日に神戸を出てから63日の長旅であった。
(「氷川丸物語」 かまくら春秋社 1978 p42 高橋茂)
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昭和6年(1931)

昭和6年(1931)
○4月、税関職員だった父の勤務先上海へ向け、杉田さん一家が大洋丸で神戸港から出帆する時の様子を、知人のカメラマンが16ミリで撮影した。大洋丸のフィルムを保存していたのは鎌倉市の杉田操さん(70)で、現在残っているのは約5分間、見送りにきた親戚らとの、ほのぼのとしたやりとりを収めている。
(「続・大洋丸誌」 大洋丸会 1995 p251 佐藤祐弘)

昭和6年(1931)
○6月18日、午後3時、横浜の埠頭と郵船大洋丸を繋ぐ数千百の5色のテープが美しい。24日は船員一座の余興芝居。定刻8時前から大入りの盛況、乗客一同の旅情を慰めるには12分の効果はあったと思うが、無遠慮に評すれば、筋書きや趣向に多少下品な点があって、あらずもがなと思われる節も少なくなかったことを遺憾とする。
(「鴻爪所感」 秋水社 1932 p14 長尾半平)

昭和6年(1931)
○7月、全世界の視聴を集める日米水上対抗競技に出場のため大洋丸で来朝した米国チーム、大洋丸デッキに並ぶ米国チーム水泳パンツ姿13人が並んでいる。
(「海の旅 6.4」 日本郵船 1931.10 p11)

昭和6年(1931)
○8月、私の留学が決まったので、父は500円を用意してくれたが、その時の為替率でそれは2500ドルに相当した。ローレンス・カレッジでの授業料と寄宿舎費用(部屋代と食費)は合わせて600ドルぐらいだったので、他の出費(米国内の旅費や日用品、教科書の購入等)を考えも、これで2年間の滞米に十分だろう、と考えられた。こうして私は8月27日に、ポータブルのタイプライターと大小二つのスーツケースを持ち、大洋丸の乗客となって渡米したのである。ホノルル経由、太平洋を2週間かけて横断した大洋丸は、昭和6年9月11日の午後、米国西海岸の桑港に入港した。
(「いくつもの岐路を回顧して」 岩波書店 2001 p54 都留重人)

昭和6年(1931)
○12月12日、大洋丸後部3等船客一同から大洋丸事務長殿へ感謝状、今般貴社汽船大洋丸東行便乗の際、従前乗船せしに勝る取り扱い上の優待なること、卓上食物の美味清潔、室内掃除浴室などの注意怠りなく、係り司厨事の見廻り注意など、何ひとつとして愉快ならざる無く、旅の慰めに活動写真ほか余興などの催し、日夜茶菓の供応、すべての取扱いに対し我々乗客一同感謝の意を、申し述べ候事なり。
(「海の旅 7.1」 日本郵船 1932 p11)
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昭和7年(1932)

昭和7年(1932)
○3月31日、映画「アメリカ」ロケーションのため横浜から神戸まで大洋丸で渡航の不二映画のスター岡田時彦氏、高田稔氏、米国名優ロナルド・コールマン氏。
(「海の旅 7.1」日本郵船 1932 p16)

昭和7年(1932)
○6月5日、大洋丸の藤岡由夫君へ無電送る。「短夜や明日は故郷に薫る風」。6月6日、6時不二屋で小宮君と会し竹葉夕食、新田で撞球、湯本筒井平田三君が藤岡君を迎えに行った帰りに立寄った。
(「寺田寅彦全集 22」 岩波書店 1998 p242)

昭和7年(1932)
○藤岡由夫、物理学・統計力学。ドイツに留学。父・国文学者藤岡作太郎。妹・綾子は中谷宇吉郎妻。
(「窮理為楽−藤岡由夫追憶」 出版委員会 1980 p285-287)

昭和7年(1932)
○遠征の日を前に朗らかに多忙な女流選手たち、昨夜は洋食のたべ方練習の陽気な晩餐会
(「東京朝日新聞 16582」 1932.6.26日刊 p11)


昭和7年(1932)
○選手歓送第二回オリムピツク列車、横浜埠頭で大演奏会並に大合唱。オリンピック派遣選手の、各選手および体育協会本部役員ら104名は新興日本の堂々たる陣容を整えて、30日(木)午後3時横浜出帆の大洋丸で晴れの首途につきます。本社は遠征選手の健闘を激励し、その勝利を祈るため前回同様横浜臨港特別列車第二回オリムピツク列車を仕立て横浜港に栄ある選手の鹿島立ちを見送り、埠頭において府立第一商業生徒のバンドによる本社のオリンピック応援歌の大演奏及び来会者の大合唱を捧げて代表選手を歓送致します。左の規定により一般読者諸君の参加を希望致します。(往)午後零時10分東京駅発、同零時54分横浜港着(途中無停車)、(復)午後3時43分横浜港発、同4時27分東京駅着(品川駅停車)。参加申込は本社受付にて450名に限り往復特別乗車券(整理のため1枚30銭)を発行致します。主催東京朝日新聞社
(「東京朝日新聞 16582」 1932.6.26日刊 p11)


昭和7年(1932)
○オリムピツク第二陣愈々あす船出、各送別会をのぞく
(「東京朝日新聞 16585」 1932.6.29日刊 p7)


昭和7年(1932)
 集合写真。六月三十日横浜を解纜した大洋丸船上に於ける日本チーム(男子陸上競技及男子競泳を除く)。
(「第十回オリンピツク大寫眞帖」 帝国公民教育協会 1932 ノンブル不明)


昭和7年(1932)
○オリンピックへの行進!第二部隊の出征、希望に輝く選手達、国民的熱情で見送る群集、思い同じく、ただロサンゼルスに掲揚する日章旗と君が代だけである。その決心に燃える多勢の女流選手と、拳闘、レスリング、端艇、水球の勇士達、それに役員併せて百四名をのせて、ニッポン晴の6月30日、大洋丸は解纜した。
(「東京朝日新聞 19587」 1932.7.1夕刊 p1)

昭和7年(1932)
○6月30日、田中英光は母斉(ひとし)に見送られ、大洋丸で横浜港を出港。7月1日船で練習開始、狭い甲板を各種目の選手が交互に使用、日課は7時―30分体操選手指導のデンマーク体操、朝食後10-11時半、バック台、駆足、棒引、速歩、昼食後休養、3時半から午前と同じ練習、6時夕食、夜は自由時間となっていた。ボートデッキの右舷は慶大、左舷は早大が占拠、共に胸と袖に赤い線の入ったユニホームを着用、真夏の炎天下、洋上で汗を流す。2日夜、映画「栄光を目指して」上映。4日朝遭難訓練、昼、船員招待の園遊会。6日、入場式の練習、夜甲板ですき焼会。高知県の女子選手相良八重に、父母が同郷の英光が好意を寄せ、先輩から揶揄される。8日風雨強く荒れる。船酔いひどく、夜、食堂に出た女子選手は相良、中西(京都二条女・ハードル)の二人だけ。9日荒れ模様続く。夜、甲板のすき焼会は出席者少なく、酔い止めに禁酒がとかれる。11日午前6時、ホノルル着。
(「田中英光全集 11」 芳賀書店 1965 p443 林清司)

昭和7年(1932)
○7月1日、波は昨日よりもあり、船は大分動揺しているので、気に弱い選手は、今にも船に酔うのではないかと心配し始めた。鉄棒上の試技は、船の動揺で恐らく一番難しく、鞍馬が一番平易に出来るであろうと考えていたが、全く正反対で、コーチもいささか面食らった。こんな動揺する船の上で練習すると、陸上で具合が悪くなるから、よい加減にした方がよい、という横着な意見もでた。
(「アスレチックス 10.9」 大日本体育協会 1932 p137 高木武夫)

昭和7年(1932)
○大洋丸に乗り込んだ日本チームの陣容。(1)本部役員:平沼団長、今村顧問、郷名誉主事、佐藤会計部長、渋谷総務委員、野口会計主任、李庶務主任、斎藤医員。(2)女子陸上:役員2名、選手9名。(3)女子競泳:杉本コーチ+選手6名。(4)飛込:島崎コーチ+男子選手3名女子選手1名。(5)水球:選手9名。(6)漕艇:役員コーチ4名選手18名。(7)拳闘:役員2名選手5名。(8)レスリング:佐藤監督+選手5名。(9)ホッケー:広瀬監督+選手13名。(10)体操:役員3名選手6名。(11)芸術競技:神津氏。(12)マッサージ:3名。その他:嘱託4名。すなわち合計106名という大チームである。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p306)


昭和7年(1932)
○ぼく坂本は身長6尺、体重19貫、ベビー・フェイス、啄木を愛する純情な文学少年である。選手団を乗せた大洋丸は熱狂的な歓送を受けて横浜を出帆する。船での映画会の夜、Aデッキで初めてあなたに会った。ぼくは選手名簿で、あなたが熊本秋子、20才、高知県出身、N体専在学、種目ハイジャンプ、記録1m57であることを知る。
(「高知新聞 30842」 1991.8.26日刊 p3 山田一郎)

昭和7年(1932)
○午前9時半頃から飛込みだけの練習にかかります。これは帆柱を利用して陸上練習機を船中に作りあげたもので、航海で陸上と同じ飛込み練習が出来るのです。これは船の方の非常な御厚意によってこの設備を作り得たこと、も一つは海が非常に静かでまるで太平洋という小さな湖を航海しているような有様で平気で飛板の上で体の平衡を保ち得るからです。この練習は12時まで続きます。
(「アスレチックス 10.9」 日本体育協会 1932 p129 島崎保正)

昭和7年(1932)
○大洋丸船内の諸設備は独逸式のもの多く、洗面台とか、便所などのスケールが大きく、どうも日本人には少し高く感じられる。なお、この船で著しいのは、キャビンからキャビンへ、ドアによって全部通じる仕組みになっている事である。聞くところによると、これは、独逸が、一朝事ある時には、直ちに徴発し、病院船として使用するため、ドクターの往診の便宜上、各室全部回診が出来る。
(「アスレチックス10.9」 大日本体育協会 1932 p117 野口岩三郎)

昭和7年(1932)
○東京で規則正しい合宿練習を終え、皆さんの見送りを受けて大洋丸に乗り込みました。船に不慣れな私は、この永い航海を何よりも心配しました。そして刻々と船が故国を離れる時、必勝を胸におさめた私は、一層その思いの切なるものを覚えました。故国でのコンディションを船中で、彼地で保持せねばならぬのが第一条件でしたので、船中では高田通先生、山岡先生が私共の身の上を非常に心配され、ある時は練習に、ある時は遊戯に談話に、絶えず御指導下さいました。船に酔う心配をした私でしたが、甲板での競争や遊戯、器械馬に乗って遊んだりして、愉快に毎日の練習ができました。
(「第十回オリムピック大会報告」 三省堂 1934 p243 広橋百合子)

昭和7年(1932)
○6月30日午後3時、オリンピック船大洋丸は怒涛のような万歳の嵐に送られ、ロサンゼルス目指して4号岸壁から静かに滑り出した。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p325)


昭和7年(1932)
○5月、広橋百合子は大阪市設グランドで行われたオリンピック近畿地区予選会で走り高跳び日本新記録1m48をとんだ。着物姿が普通の時代、短パンをはいて極限に挑戦する姿は、当時の人々には異様に見えた。「広橋の娘、あれは男やないか」とまで言われた。ロサンゼルスのホテルのエレベーターの中で一緒になった外人選手が「あなたは何に出場するの」と尋ねるので「ハイ・ジャンプ」と答えると、「バーの下をくぐった方が早いわね」と笑われ、渡米初日にみじめな思いをした。
(「スポーツ押水」 押水町体育協会 2003 p20 広橋百合子)

昭和7年(1932)
○「第十回オリムピック大会報告」には役員報告と選手報告が載っている。熊本秋子のモデルとなった相良八重の「淋しいスパイクの跡」の他、内田のモデル中西みち子、中村のモデル広橋百合子らの報告もある。これを読むと各選手たちの船内生活が、周到な健康管理と練習計画によって進められていたことが分かる。オリンピック大会で最善を尽くすための節制と精進が、選手たちに課かされていた。船旅での解放的気分が選手たちにあったが、男女交際はタブー視されていた。
(「国文学解釈と鑑賞 54.6」 至文堂 1989 p115 島田昭男)

昭和7年(1932)
○サイン・写真・挨拶などと目を廻しているうちに、ドラが鳴り渡り、荘厳なる君が代・オリムピック応援歌・校歌に送られ、大洋丸は横浜埠頭を離岸。選手達の船上生活が始まった。信州の山国に育ち、海は数えるほどしか見た事の無かった私は、荒れ狂う波ばかりを想像して、どんなに恐ろしかろうと、心配していたが、そんな心配はいらなかった。海は来る日も来る日も、風も無く、波も無く、静かだった。時々飛魚が銀色の腹を見せ、紺碧の海面をつーと飛んだり、沖にポッカリと、イルカが浮き出る事も、アホー鳥が船を追って来る日もあった。
(「第十回オリムピック大会報告」 三省堂 1934 p247 真保正子)

昭和7年(1932)
○大洋丸の舷では、槍の真保が、大洋にむかって、紐をつけた、槍を投げている。ブンと風をきり、50米も海にむかって、突き刺さって行く槍の穂先が、キラキラと陽に眩めくのが美しい。上の甲板から、ダイビングの女子選手が胴のまわりを吊環で押さえ、空中に、さッと飛ぶ。
(「オリンポスの果実」 新潮文庫 1991 p32 田中英光)

昭和7年(1932)
○女子水泳の前畑秀子孃達は、まだ水をいれない空のプールの周りに集まって「泳ぎたいわ泳ぎたいわ」と歓声をあげたが、女子陸上のグループにピンポンの試合を申込み、Bデッキで対抗競技が始まる。
(「東京朝日新聞 16587」 1932.7.7日刊 p11)

昭和7年(1932)
○往航の乗船は第一隊龍田丸(陸上男子、水上男子競泳)第二隊大洋丸(陸上女子、水上ウオーターポロ、女子競泳、ダイヴィング、漕艇、ボクシング、レスリング、ホッケー、体操)であるが、第二隊の大洋丸は実質上オリムピック船と称し、ツーリスト、キャビンの殆んど大部分を110余人の一行によって占領し、団員も随員も船内をかなり自由に使用できると予想していたが、出帆後船内使用規定を聞いて唖然とした。1等デッキを使用できるのは一日中極めて限られた練習時間のみであって、それ以外は厳格なる船内規定によって乗客の等級を厳密に主張励行されたため、休憩時間にキャビンに閉じ込められる息苦しさより解放されようとすれば、狭い2等デッキを彷徨するよりほかなく、わずか3、40坪位の日影のないデッキに50余の椅子を並べて炎天の下に油汗を流しながら、転寝を貪るさまをみるとき、我が身を削られるような焦燥の念に襲われた。そうじて大洋丸の幹部諸公は航海の最終まで、なんとなく冷淡な印象を一行に感じさせ、これに比べて下級船員は、常に温かい心をもって一行を慰労してくれたことを、せめてもの土産としなければならぬ。
(「第十回オリムピック大会報告」 三省堂 1933 p275 李想白)

昭和7年(1932)
○往航の乗船は第一隊龍田丸(陸上男子、水上男子競泳)第二隊大洋丸(陸上女子、水上ウォーターポロ、女子競泳、ダイビング、漕艇、ボクシング、レスリング、ホッケー、体操)。第一隊は満足な航海を続けたようだ(が、第二隊は選手団の不満が強かった)。船内をかなりの程度自由に使用しうるものと予想していたが、出帆後船内使用規定を聞いて唖然。「特殊の好意」によって一等デッキを使用できるのは限られた練習時間のみで、それ以外は厳格な船内規定で乗客の等級を厳密に主張励行されたため、30〜40坪の日陰のないデッキに50脚以上の椅子を並べて炎天下に転寝をむさぼる航海だった。総じて大洋丸の幹部諸公は一行に冷淡な印象を与えた。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p275)

昭和7年(1932)
○船上でのトレーニング状況を各種目別に記載。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p306)

昭和7年(1932)
○海洋丸便り、勝つまではお菓子廃止、女子選手の意気込み
(「東京朝日新聞 16595」 1932.7.9日刊 ノンブル不明)


昭和7年(1932)
○横浜解纜からロサンゼルス到着までの選手団の行動を、『アサヒ・スポーツ』掲載の船中通信により紹介。7月1日:朝6時、船員が洗浄した水だらけの甲板の上を、お下げ髪に水兵服の女子選手が一人で足の練習。他の誰もがまだ起きない早朝に一人精進しているのは女子水泳トップの前畑嬢。レスリングの加瀬5段などが駆け足を始める。6時半になると拳闘のファイトマネジャーに率いられた5選手がデッキ回りの練習、特に亀岡選手の熱心さが目立つ。その他選手も思い思いの練習を行い、7時には朝食。AKの3アナウンサーはラジオ体操を聞くためラジオ前に集合。この日、空はやや曇ってはいるが波は穏やか。船は横浜から350海里。時速16海里でロサンゼルスに向かっている。7月8日:船は南に3000海里航行。暑さが加わり時に驟雨のため練習が妨げられる。女子陸上競争チームはバトンのタッチに村岡・柴田の2嬢が進境を示す。女子陸上競技選手は五輪で勝つまで菓子断ちを決定。女子水泳では前畑嬢が200mブレストで、短いプールながら2分59秒のタイムを出した。(甲板での集合写真2枚あり:全員、レスリングチーム)
(「第十回オリンピツク大寫眞帖」 帝国公民教育協会 1932 p14)


昭和7年(1932)
○田中英光は大正2年1月10日、東京都赤坂区榎町5番地で、父岩崎英重、母斉(ひとし)の次男として生まれた。長姉英子(たかこ)、長男英恭(ひでやす)、次姉珠子の兄姉があった。大正8年、渋谷区加計塚小学校に入学、9年一家が神奈川県鎌倉町字姥ケ谷に転居、英光は鎌倉小学校へ転校。大正14年4月、県立湘南中学校入学。父英重は大正15年5月死去。英光、昭和5年3月中学卒業、4月早大第2高等学院入学。昭和5年一家は渋谷区伊達28に移る。英光昭和7年学院卒業、4月早大政経学部入学。英光本籍は高知市宝永町84番地で母の出身地。父は土佐郡土佐山村菖蒲の産。大洋丸船中で高知県出身と知ったのが相良八重は当時、高知市東種崎町(八幡通り角)でサガラ薬局を経営していた相良善吾の2女で、昭和7年3月土佐高等女学校(現、土佐女子高校)を卒業、東京女子体専に在学中。走高跳1米47。165糎8の均整のとれた体、円らな目・ちんまりした鼻・ちじれ毛の可愛い顔がよく調和し魅力的な女性であった。
(「土佐の近代文学者者たち」 土佐出版社 1987 p91 岡林清水)

昭和7年(1932)
○9日、大洋丸は、オリンピック日本選手第2軍76名を乗せ、在留邦人の歓呼に迎えられて寄港した。
(「布哇年鑑 1933-34年」 日布時事社 1933 p25)

昭和7年(1932)
○7月11日、大洋丸の今村次吉氏(顧問)宛て、沢田理事より打電。「市の補助金2万5千円、13日市会にて可決の筈、直ぐ貰う積り」
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p326)


昭和7年(1932)
○7月15日午前2時半、サンフランシスコ金門湾入港、4時20分日本郵船桟橋第34号に繋船、市中行進後、総領事官邸の歓迎会。7時半からハインク女史の君が代独唱を聴き船中に宿泊。16日ボートはカリフォルニア大学で軽い練習。17日は神奈川県人会。18日午前7時、ロサンゼルス外港サンペドロへ入港した。
(「田中英光全集 11」 芳賀書店 1965 p443 林清司)

昭和7年(1932)
○7月9日、オリンピック日本選手第2軍76名在留民の歓呼に迎えられて大洋丸で寄港した。
(「布哇年鑑1932-33年度」 日布時事社 1932 p36)

昭和7年(1932)
○一行が携帯する荷物の処置。往路第1船で会長の荷物1個紛失、以後は特に警戒し、往路第2船と帰路全員の荷物は問題なかった。ただし、往路第2船のロス上陸の際、かねて開封しないと約束されていた一行の荷物が、税関吏により大半開封を命じられ、交渉して先方が了解した頃には大部分の開封検査が終了していた。米国側は酒類を食料として携帯する場合は許可する方針であったが、日本監督団は独自に酒類の不携帯を決めた。ところが日本選手の酒類携帯が新聞に報道されたため、税関として職責上黙過できないとなった。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p276)


昭和7年(1932)
○カブ・フイニステレはハンブルク南アメリカ・ラインの南米航路用客船で、明治44年完成当時は同社のフラッグシップでもあった。デッキ吹抜けにした大食堂、最上階にある大理石張りのプールなど豪華だったが、トップヘビーで試運転のあと手が入れられた船だった。日本にきて復元性への懸念から引受手がなかったが、その豪華さからTKKが桑港航路で、大洋丸と改名して運航することになった。アンチ・ローリング・タンクをはずして、固定バラストを積む改装をすませ、大正10年5月長崎から香港への最初の航海に出た時は、浅野社長が乗込み安全性を宣伝した。TKKは天洋丸、春洋丸、大洋丸、さいべりや丸、これあ丸の老朽船5隻を何とか16ノットの航海速度で運航して外国船に対抗したが、大正13年米国の移民割当法(排日移民法)で日本移民が激減し、経営状態が悪化した。代替船建造の許可を政府に訴え、井上準之助に懇願していた浅野社長であったが、処女航海で同船してくれた同郷の後援者安田善次郎を、航海直後の大正10年9月に失って、新船建造も夢となり、大正13年は大洋丸と自社船8隻、桑港航路と南米西岸航路営業権の一切をNYKに譲り、北太平洋定期客船航路から消えていった。大洋丸はNYKに移籍してからも北太平洋航路を走り続け、昭和14年大連航路に移った。太平洋戦争では陸軍に徴用され昭和17年九州沖の男女群島付近で米潜水艦の雷撃により800人の犠牲者と共に一生を終った。田中英光の「オリンボスの果実」は大洋丸で昭和7年のロサンゼルス・オリンピックに遠征する日本選手団の物語で、明るい話題の少ない大洋丸の華やかな一時であった。
(「北太平洋定期客船史」 出版共同社 1994 p166−167 三浦昭男)
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昭和8年(1933)

昭和8年(1933)
○1月29日、金沢駅前東洋軒で金沢の方々と茶を飲み、支那そば、酒もくむ。吹雪のなか7時15分発急行に乗車。30日午前7時に上野着。出迎え東京の友人に混じりメーソン氏。午前中武雄が郵船に行き切符を買った。暁烏のは大洋丸1等221号室1500円、武雄のはツーリスト65号室590円、離れて不便だが10日間に500円もうかると武雄分を節約した。
(「暁烏敏全集3−3」 香草舎 1960 p508)

昭和8年(1933)
○1月31日、上野駅から電車で横浜桜木町についたのは午前10時半頃だった。直ちに大谷派別院で送別の宴が開かれた。2時大洋丸に乗り込んだが、沢山の人が見送られた。中村君がデッキで皆の撮影をしてくれられた。かくて大洋丸は3時に錨をあげた。今度は武雄が同行するので、テープを持ってデッキにたっても淋しい気がしなかった。船中では毎夜活動写真があり、6日の夜は演劇会があった。屋上庭園に小鳥の声は聞こえる。万事行届いて天上界のような生活である。
(「暁烏敏全集3−3」 香草舎 1960 p509)

昭和8年(1933)
○ハワイ旅行は、1月30日に発って、4月29日に帰る約3箇月の講演行脚である。招待の責任者はヒロの泉原寛海回教使で、その女婿である暁烏武雄を随行に指名してきた。ハワイ4島を巡講するのである。大洋丸に乗って3日目即ち2月2日船中に電報が来た。台湾開教監督木下方渓から10月台湾全島にわたっての巡講依頼の電話であった。承諾の返電をし、整っている昭和8年の予定変更を家信した。
(「暁烏敏伝」 大和書房 1974 p542 野本永久)

昭和8年(1933)
○2月9日、横浜よりの大洋丸で暁烏敏氏、来布。
(「布哇年鑑1934-35年度」 日布時事社 1934 p27)

昭和8年(1933)
○4月11日、横浜よりの大洋丸で暁烏敏氏来布。13年振りに日本ビールが到着した。
(「布哇年鑑1934-35年度」 日布時事社 1934 p27-133)

昭和8年(1933)
○10月5日、本派本願寺布哇別院新総長足利瑞義、郵船ホノルル出張所長蘆野正、横浜サムライ商会主野村洋三の諸氏横浜より大洋丸で来布。
出典?

昭和8年(1933)
○10月25日、桑港よりの大洋丸で日本労働組合連合委員長坂本孝三郎氏や南米に遠征した日本陸上選手団寄港。
出典?

昭和8年(1933)
○10月25日、桑港よりの大洋丸で日本労働組合連合委員長坂本孝三郎氏ならびに南米に遠征した日本陸上選手団が寄港。12月2日、税金を払った酒類の布哇輸入に対し、干渉せずと合衆国地方検事発表す。禁酒撤廃を見越し、米大陸行きの日本酒を積んだ大洋丸が寄港。
(「布哇年鑑1934-35年度」日布時事社 1934 p27-133)

昭和8年(1933)
○12月20日、桑港よりの大洋丸で経済評論家高橋亀吉氏が寄港。ヌアヌ青年会で講演。昭和9年2月10日、横浜よりの大洋丸で日本神道研究家J・メーソン氏夫妻、桑港よりの大洋丸で故国へ飛躍する飛行士東善作、ユニバーサル映画社撮影技師三村明氏寄港。日本人基督教婦人会が拠出の函館罹災者への慰問品を大洋丸で積出。
(「布哇年鑑1934-35年度」 日布時事社 1934 p27-133)
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昭和9・10年(1934〜35)

昭和9年(1934)
○4月26日、桑港よりの大洋丸で故国へ飛躍する飛行士東善作氏寄港。
(「布哇年鑑 1934-35」 日布時事社 1936 p38)

昭和9年(1934)
○日米の学生が自由に意見を交換し、相互理解を深めて両国の関係改善を目指そうと日本の学生が提唱した。これに応じて米国から約百人が日枝丸や大洋丸に分乗して来日、第1回が青山学院で開催された。
(「日本経済新聞 42630」 2004.9.9日刊 p44 山本東生)

昭和10年(1935)
○5月、本校の修学旅行は、大正13年の第3回目から、往路または復路のいずれかを日本郵船の1等船室を借りきって横浜から神戸までの豪家な船旅にあてるという方法がとられた。すべてにわたって第一であらねばならぬとした当時の吉川校長の心意気の表われであろうか。そこでは、同船の外国人との交際や洋食のマナーの習得なども出来た。客船を利用した修学旅行は昭和12年の秩父丸(往路)をもって打ち切られた。なを、本校が利用した主な客船は次の通りである。サイベリヤ丸(大正13・14年、昭和4年) 鹿島丸(大正15年・前班) 香取丸(大正15年・後班、昭和6年・復路) 伏見丸(昭和5、7年)大洋丸(昭和3年、8−11年)
(「百年史」 東京都立白鴎高等学校 1989 p59)

昭和10年(1935)
○5月、第5学年近畿地方修学旅行日程表。5月7日(日)東京駅(発)午前8時30分、省線で桜木町(着)午前9時15分、京浜線で横浜港(発)正午、大洋丸、汽船内部、船中。5月8日(水)神戸港(着)正午、神戸港(発)午後0時30分、自動車、湊川神社、大阪城、大阪(発)午後4時30分大軌電鉄[以下略]、横浜港から出帆昭和10年5月7日大洋丸写真(p70)、大洋丸の絵ハガキ、和紙で立派、記念に何種類かいただいた、図版(p71)、メニューカバー、メニュー、図版、大洋丸写真
(「百年史 写真集」 東京都立白鴎高等学校 1989 p70−71)

昭和10年(1935)
○8月、横浜からサンフランシスコに向かう大洋丸の甲板で、陸軍軍人辰巳栄一は不思議な日本人に出会った。彼白洲次郎はその年の2月26日に起きた皇道派青年将校暴走をしんから怒っていた。その後大洋丸のデッキチエアに、辰巳と白洲が坐り、語り合う姿が、しばしば見られた。
(「風の男−白洲次郎」 新潮社 1997 p7-10 青柳恵介)
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昭和11〜13年(1936〜38)

昭和11年(1936)
〇7月、太平洋問題調査会(IPR)が、総会を米国のヨセミテで開き、日本代表は石井菊次郎子爵を団長に、芳沢謙吉氏、国際司法で有名な山川端夫博士のほか、鶴見祐輔氏などが団員で、私は住友から加わった。7月上旬、神戸を出発し、代表団一行と横浜で落ち合い、日本郵船の大洋丸でサンフランシスコに向かった。
(「一銀行家の回想」 図書出版社 1990 p36 大島堅造)

昭和11年(1936)
○ニューヨークに本部のある太平洋問題調査会(IPR)は、日米加など太平洋沿岸国+英仏等の国際機構、民間団体で政府関与なし。1936(昭和11)年米国加州の国立公園ヨセミテで総会があり、日本代表団の一人として一行に加わった。団長は国際私法の大家山川博士が選ばれ、団員は元外相芳沢謙吉氏、鶴見祐輔君、上田東京商大学長、高橋亀吉君ら。秘書は東京からは西園寺公一君、米国からはプリンストン大学で勉強している近衛文隆君、米国留学中の松方春子さん姉妹たち。日本代表団は同年7月29日日本郵船の大洋丸で横浜を出発、8月14〜29日をヨセミテで暮らした。
(「一銀行家の回想」 図書出版社 1990 p167 大島堅造)

昭和12年(1937)
○4月3日、横浜よりの大洋丸で日本のデ杯選手山岸二郎、中野文照、新傾向俳句の萩原井泉水氏來布。6月29日、桑港よりの大洋丸で日本行観光団13組寄港。8月9日、横浜よりの大洋丸で近衛秀麿子、PCLスター澤蘭子寄港。9月24日、横浜よりの大洋丸で近衛文麿君寄港、ハワイ大学教授として日本文化史講座担当の木村正治博士來布。10月13日、桑港よりの大洋丸第6回世界一周実業団員一行26名寄港、また同船で皇軍慰問袋1万275袋発送さる。
(「布哇年鑑1939年度」 日布時事社 1938 p36-41)

昭和12年(1937)
○6月、世情が学問への専念を許さないまま、昭和11−12年の間、日中問題の執筆活動に忙しかったが、学位論文のため昭和12年の夏休みには日本に一時帰国して、学界の新しい動向の吸収に集中したいと思い、4月早々太平洋横断船便の予約にとりかかった。どういうわけか、その年の日本行のNYKは満杯状態で、希望通りの旅程が組めず、ようやく私は6月23日桑港出帆の大洋丸に空床をとることができた。
(「いくつもの岐路を回顧して」 岩波書店 2001 p152 都留重人)

昭和12年(1937)
4月15日、本庄栄治郎は郵船箱根丸の船客となって神戸を発し、5月23日にマルセイユに上陸し、ベルリンに本拠を置いて欧州大陸各地を旅行し、英国を経て米国に渡り、10月7日桑港出帆の「大洋丸」で同月24日横浜に帰着した。
(「本庄栄治郎著作集 10」 清文堂 1973 p370)

昭和12年(1937)
○10月4-26日、キャビン・クラス(一等)羅府より遠藤福太郎(桐材問屋)ほか11名。桑港より青木定雄(明治製菓技術員)ほか51名。ツーリスト・クラス(二等)羅府より千葉益子(美容術)ほか10名。桑港より浅見文吉(浅見文林堂社長)ほか11名。サード・クラス(三等)は名前の記載なし138名。乗客総数273名。乗組員257名。合計530名。
(「御乗船記念芳名録 大洋丸62次復航」日本郵船1937.10.26 17p 198×130)

昭和13年(1938)
○1月21日、横浜よりの大洋丸小原国芳氏らの国民外交団、活花の押川如水女史、鳩山一郎氏夫人来布。
(「布哇年鑑1939年度」 日布時事社 1938 p42-48)

昭和13年(1938)
○3月、卒業を前にして修学旅行で関西方面に行ったんですけど、横浜から神戸まで大洋丸という汽船でいったんですよ。その船に、上海まで行くアメリカ人の方が大勢乗っていらして、アメリカ映画「椿姫」を見せてもらいました。椿姫の役は、たしかグレタ・ガルボでした。外国の娼婦の話でしょう。とても印象に残りました。
(「吉原はこんな所でございました」 主婦と生活社 1986 p101 福田利子)

年?
内容?
(「深川 122」 クリオ・プロジェクト 1998 p15 枝川公一)
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昭和14・15年(1939〜40)

昭和14年(1939)
○戦前期の主要航路は太平洋航路の逓信省命令航路として、シャトル線とサンフランシスコ線がある。そのシスコ線には、浅間丸、龍田丸、鎌倉丸、そして大洋丸の4隻、2週に1回の就航である。シスコ線の寄港地をあげる。香港→上海→神戸→清水→横浜→ホノルル→サンフランシスコ→ロサンゼルス→サンフランシスコ→ホノルル→横浜→神戸→上海→香港、である。これは昭和4年からロサンゼルスが起終点となる。16年7月休航となる。
(「日本郵船百年史資料」日本郵船1988 p732)

昭和14年(1939)
○10月、日本郵船は、桑港線から大洋丸を撤退させて、浅間丸型3隻としたが、昭和15年4月、新造船新田丸、次に八幡丸を就航し5隻で2週1回の定期航海を実施した。
(「七十年史」 日本郵船 1956 p278)

昭和15年(1940)
○5月23日、「輝ク」には誰もが寄り集つたが、長谷川時雨もまた誰をも公平に扱つていた。慰問文集によって軍との絆が強まると、こんどは軍から戦地慰問の話がもちかけられた。すぐに希望者がでた。輝ク部隊は渡支慰問班を企画する。すでに従軍を経験している吉屋信子、林芙美子、長谷川春子らの話から、陸軍の従軍はきついが、海軍は飛行機や自動車をふんだんに使ってくれるし、それに待遇も佐官級以上の扱いをしてくれるので、女の身にも耐えられると知っていた。海軍の支援のもとに第1回の中南支方面慰問団が結成され、長谷川春子、井上篤子、娘の井上寿子、黒田米子、大田洋子、それに音曲舞踊班として、杵屋六知之、彭城秀子、鶴田桜玉、藤間勘園が輝ク部隊から派遣されることになった。水交社での壮行会、宮城、明治神宮参拝のあと、5月22日東京駅を出発、時雨を先頭に、隊員が輝ク部隊の黄色のたすきを掛け小旗をうちふって盛大に見送る。一行は23日、大洋丸に乗船し、上海、漢ロヘ向かった。前線と病院をまわり、多いときには日に3度の講演と慰問をこなすという、1か月の忙しい旅だった。行く先々から兵士の礼状が送られてくる。「輝ク」6、7月号の紙上に掲載。7月号には黒田米子、井上篤子の帰国報告と、戦地から兵士が寄せた慰問のお礼が載る。8月号に長谷川春子の文が載った。
(「女人しぐれ」 講談社 2001 p279 平山寿三郎)

昭和15年(1940)
○5月23日、大洋丸はいま鳴門海峡をすぎました。今夜は満月の筈で皆たのしみにしていましたが、濃い桃色の陽が沈む頃から薄曇り、夜に入ると空も海も真黒になりました。しかし波は高くありません。この船は豪華ではなく、ドイツの技術の匂いがじかに来るほど、堅牢重厚なものです。このドイツ人の造った巨船の中で、ドイツ人は落ち着いた顔色、英仏人は沈んだ表情。食堂などでありありとそれが感じとられます。
(「輝ク 8.4.85」 1940 p1 大田洋子)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:55| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昭和16年(1941)

昭和16年(1941)
○開戦前夜の日本の北太平洋航路。日本は英国・米国に次ぐ世界第3位の船腹量を維持してきたが、1939年に起こった第二次世界大戦のため、世界に張り巡らされた日本の定期航路はこの年から翌年にかけ次々に閉鎖されていった。1930年代後半の北太平洋航路は、サンフランシスコ航路では浅間丸・秩父丸(1939年1月鎌倉丸と改名)・龍田丸・大洋丸と新鋭船を主体にそれぞれ2週に1便の定期を張り、華やかな客船黄金時代の真っ盛りであった。37年7月の本格的日中戦争の勃発から41年7月の南部仏領インドシナへの進駐にいたり、日本と英米の関係は決定的に悪化、ついに41年7〜8月にかけ北太平洋の架け橋が消えた。龍田丸・氷川丸・大洋丸はこのあと10月、引揚者輸送のため米国に行くが、これは定期航路ではない。また龍田丸が太平洋戦争開戦直前に米国に向け横浜を発った航海は、開戦を隠す偽装航海といわれた。このようにして太平洋戦争開戦の前夜には、北太平洋に活躍したほとんどの日本船は祖国に帰り、開戦準備に入っていた。
(「北太平洋定期客船史」 出版協同社 1994 p195-196 三浦昭男)


昭和16年(1941)
○太平洋横断旅客船の今昔18、引揚帰国者の輸送。第二次世界大戦勃発後も米国は中立を保ち、太平洋横断旅客船も平穏な航海を続けていた。しかし1941(昭和16)年7月ともなると、浅間丸がマニラから蘭領インド・バダビアに差し立てられ、当時抑留されていた独乙人婦女子および独乙外交官等6百余名を搭載、上海・長崎・神戸へ輸送したのをはじめとして、引揚帰国者の輸送が相次いだ。9月から11月にかけ、北米方面へは龍田丸・氷川丸・大洋丸が、内地引揚邦人輸送のために配船された。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p21 高久虔一)


昭和16年(1941)
○6月2日、徳永太郎は在スイス日本公使館3等書記官に任ぜられたが、独ソ戦でシベリア経由を断念、浅間丸で妻と横浜を出航、ところが米国の在米日本資産凍結で、浅間丸は横浜に帰港。しかし徳永は欧州赴任を果たすため、日米の政府間協定により運航の政府御用船「大洋丸」で10月20日横浜出航、11月1日ホノルル到着。数日後、米国船で桑港へ、大陸横断鉄道でニューヨーク到着。11月下旬出航、12月上旬リスボンに到着。マドリードから鉄道で12月8日、日米開戦の日、ベルン着。駐スイス公使は三谷隆信であった。
(「日本・欧米間、戦時下の旅」淡交社2005 p89 泉孝英)

昭和16年(1941)
○8月、太平洋航路閉鎖により、人と物資が滞留したので、日本政府は米国政府と交渉し、各自国への引揚者を輸送することになった。10月に政府は日本郵船の3隻を傭船、日本郵船旗を降ろし、煙突を黒塗り郵船マークも消した政府御用船を米国に派遣した。第一便龍田丸10月15日、第二便氷川丸10月20日、第三便「大洋丸」は10月20日、米国への船客361名で横浜出航、11月1日ホノルル着、日本への船客456名で5日出航、17日横浜に帰港。
(「日本・欧米間、戦時下の旅」淡交社2005 p95 泉孝英)

昭和16年(1941)
○11月1日にホノルル入りした大洋丸船内で、ハワイ領事書記生として軍令部からひそかに派遣されていた予備役吉川猛夫少尉が、二人にそれまでの諜報活動の成果を伝えた。翌2日の日曜日、鈴木少佐は真珠湾に浮かぶ米戦艦、駆逐艦、巡洋艦の数や位置に目をこらした。米艦隊が休息日にハワイのどこに集結しているかを把握することは、鈴木少佐に課せられた重要な任務だった。
(「企業戦士たちの太平洋戦争」 社会思想社 1993 plO 小田桐 誠)

昭和16年(1941)
○11月1日、大洋丸から下船の、軍令部の使いが持ってきた97項目の質問状には、ハワイの気象条件が、質問してあった。私は、ハワイには暴風雨なし。オアフ島の北側は曇天多し。北側よりヌアヌパリを通り、急降下爆撃が可能である、と回答した。
(「東の風、雨」講談社 1943 p64 吉川猛夫)

昭和16年(1941)
○11月4日午後5時、大洋丸の出港予定だったが、帰国する日本人447名に対する調査がきびしく、女性でも裸身にされて検査される者がいた。出港は翌5日に延期され、乗務員も厳重な身体検査をされたので、鈴木たちは自分たちの行動が察知されたかと不安だった。ようやく翌5日午後7時半になって出港許可がおりたが、明るいうちに出港させると真珠湾を盗み見られることを恐れた米軍の配慮にちがいなかった。
(「大本営が震えた日」 新潮文庫 1981 p282 吉村 昭)

昭和16年(1941)
○11月4日、出港の予定だった大洋丸は、入港が1日おくれたのとホノルルからの引き揚げ邦人の数が予想以上に多かったので、出港が1日延期され、5日の日曜日午後3時と決められた。米当局は乗客検査を厳重入念に行い、結局出港は午後7時半になった。ホノルルからの乗客の中には、松尾敬宇中尉もいた。
(「週刊読売 34.24」 1975.6 p72 鈴木 英)

昭和16年(1941)
○予定より1日遅れの11月5日夜、ハワイの在留邦人、日系2世147人を乗せた大洋丸はホノルルを出発し、17日朝、横浜港に投錨した。で大洋丸が帰航途中の15日、同じ日本郵船所属富士丸は、政府命令を受け、蘭印在住民間人最後の引き揚げ船として1800人を収容し、連合国側の包囲網を脱する。大洋丸の方は翌昭和17年5月、民間企業戦士を乗せて、はじめて南方産業開拓のために出航する船となる。
(「企業戦士たちの太平洋戦争」社会思想社 1993 pll 小田桐 誠)

昭和16年(1941)
○横浜に向かう大洋丸の船中で、鈴木英は日本への帰国を選んだ2世と親しくなった。一緒に酒を飲むうち、鈴木はライハナには船が一隻もないことを知った。これは吉川猛夫が知らなかった情報だが、12月8日機動部隊は飛行機を真珠湾に集中できた。
(「日本国ハワイ」 恒文社 1984 p138 JJステファン)

昭和16年(1941)
○大洋丸に帰国のため乗船してきた広島県出身の満岡豊蔵という男は、ラハイナにあるアメリカ人経営の砂糖会社の社員としてラハイナに34年間も住んでいたという。彼の話では、ラハイナ泊地には今年4,5月以後潜水艦以外の船は入港せず、補給施設も貧弱で、アメリカ艦隊が在泊する港湾設備は整っていないらしい。鈴木少佐は、アメリカ艦隊の集結地は、真珠湾以外にないと断定した。
(「大本営が震えた日」 新潮文庫 1981 p280 吉村 昭)

昭和16年(1941)
○11日17日、松尾敬宇中尉は初め特潜艇員として、真珠湾攻撃に参加するはずであったが、「大洋丸」の帰着が遅れたため、別の搭乗員に決定した。
(「決戦特殊潜航艇」朝日ソノラマ 1984.9 p45 佐々木半九)

昭和16年(1941)
○10月15日、私は新田丸で無事3等事務員を卒業でき、いよいよ首席事務員に昇格した。そしてシャトル航路の平安丸へ神戸で乗船、ところが、急に社命下船大洋丸へ転船の指示が来た。引き継ぎは無く10月11日下船、横浜へ東海道線で陸行、10月15日大洋丸に乗船したが、こんな配乗指示は前例がない。ホノルルへの入出港・税関・移民官などの関係事務を、私の新田丸での最新経験でこなせと、ただ一人引き抜かれて転船したのだった。事務室の他の全員が北米航路を知らない者ばかり、船は政府の徴用船であるので、社旗は掲揚せず、煙突の二引のマーク、白地に赤二線引きのファンネル・マークも、黒色に塗沫、特殊な配船との空気は、船内に満ち満ちている。私自身これがまさか太平洋戦争への最後の配船だとは夢にも思わなかった。臨時船大洋丸は、米国への帰国者447名を乗せ横浜を出港。ホノルルで乗客全員を降ろし、下船者は米国船でシスコ、ロスへ送られた。大洋丸はホノルルへ11月1日到着し、11月5出帆したが、帰路は日本への帰国者301名を乗せていた。
(「豪華客船のドラと共に」 中之島プリント 1985 p242-256 二口一雄)

昭和16年(1941)
○ハワイ攻撃作戦については連合艦隊の上層指揮官の中にも反対が強かったが、山本連合艦隊司令長官の強い意向で実施が決定され、昭和16年10月19日、軍令部総長は正式に決裁を与えた。この決定に先立ち日本海軍は、ハワイ現地偵察、諜報作戦を実施した。7月南支那海で沿岸封鎖中の鈴木英少佐は、ハワイ現地偵察を命ぜられた。少佐は潜水学校教官前島寿英中佐と共に、10月22日横浜を出る大洋丸に乗船した。
(「写真太平洋戦争1」 光人社 1995 p12 梅野和夫)

昭和16年(1941)
○昭和16年7月、当時第三艦隊参謀であった私は、東京転任を命じられた。開戦近い切迫した時期の陸上(人事局)勤務は不満だったが、9月下旬に軍令部第一部の立花少佐に呼ばれ、ハワイ軍港のスパイを命じられた。すでに日米両国は通商閉鎖状態で船の往来がなかったが、日本郵船の大洋丸が在日米国人の帰国のためハワイに向かう予定で、私はこの船に郵船本社の派遣事務員に化けて乗り込むことになった。また潜水艦の専門家である前島中佐が船医に化けて乗った。私たちの身分を知っていたのは、船長、事務長に船医、その他二三名の高級船員だけだった。船は10月20日午後横浜を出港。米本国に帰る数百名のアメリカ人たちが家族と共に乗っていた。進路を北にとって択捉島近くまで北上、それから東に向かったが、これは船長に対して海軍側から要請された航路で、後で思えばハワイ空襲部隊の航路にあたる。風向、気圧、船の動揺、給油予定地点を調べた。船が東進しアリューシャン群島とミッドウェー島とを結ぶ線の中間を過ぎ、東経165度あたりから南に下ってハワイ島を目指す頃になると、海は凪いできた。当時は米ソの輸送船がこの航路の近くを通っていると思われていたのに、航行中に一隻の船にも遭遇しないことは私を喜ばせた。これなら我が機動部隊は隠密のうちにハワイに肉薄できる。10月末の北洋は寒かった。今度の航海はやけに北を通るものだと船員たちも不思議そうに語っていた。曇天ながら14mの風が吹き、15000トンの大洋丸が10度も傾くほどだった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p24-25 鈴木英)


昭和16年(1941)
○大洋丸はオアフ島の北方、約200マイルで米軍の哨戒機につかまった。哨戒機は頭上を旋回。船が100マイル地点まで近接すると、米軍機が編隊を組んで近づき、大洋丸を目標に急降下し、擬襲をおこなった。なかなか上手だぞ、 私は船橋から、米軍の演習ぶりを眺めた。大洋丸に幸運が訪れた。米側は大洋丸を桟橋の一番外側、つまり真珠湾に一番近いところに接岸させた。何という幸運!真珠湾が丸見えではないか! それに大洋丸は古い大型船でデッキが高く、万事に都合がよかった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p25 鈴木英)

昭和16年(1941)
○11月1日未明、大洋丸はオアフ島の北方、約200マイルで米軍の哨戒機につかまった。哨戒機は頭上を旋回して南に去った。船が100マイル地点まで近接すると、米軍機が編隊を組んで近づき、大洋丸を目標に急降下し擬襲をおこなった。私は船橋から米軍の演習ぶりを眺め、なかなか上手だぞと思った。米軍の防禦戦法を「200マイルが哨戒線、100マイルで攻撃か」と判定しながら、私は敵の演習ぶりを視察し続けた。日本海軍の航空専門家が乗っているとも知らず、手の内を見せてくれるわい。それにしても一体日米は戦うであろうか。警戒は想像以上に厳重で、ホノルル港外で士官以下10名の米海兵が乗り込んできた。彼らのうち誰一人神経を尖らせている者はいなかった。ホノルルの港内を目指し微速で進んでいる大洋丸を、古い型の日本商船と軽視したのだろう。飛行機の哨戒ぶり・それに伴う編隊の擬襲・先ほど見た防潜網は、非常に厳しい警戒を始めていることを示すが、話しぶりではまだ一般の兵士にまでは及んでいないようだと思った。米側は大洋丸を桟橋の一番外側、つまり真珠湾に一番近いところに接岸させた。何という幸運、真珠湾が丸見えだ。船橋に立てば真珠湾を出入りする米艦艇が手に取るように見え、ロージャース、ヒッカム両飛行場、フォード島も指呼の間だった。大洋丸が古い大型船でデッキが高いのも、万事に都合がよかった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p25-26 鈴木英)


昭和16年(1941)
○こんなよい桟橋に大洋丸をつけたのは無気味であった。大洋丸の真横にイギリス駆逐艦が碇をおろしており、これで我々を監視するのかと前島中佐と私は語り合った。陸へ上がった船員には尾行がつくということで陸上での連絡は不可能に思え、一切の情報収集は船内でやることにした。船長室と弦門に直通電話を引いて高級船員に弦門を監視させるなど、盗聴防止にも十分注意した。これだけの準備をしてからホノルル領事館北(ママ)総領事に私の身分を打ち明けた。領事館からは在留日本人の引揚げ乗船の手続きで、頻繁に大洋丸に連絡が来る。その都度、領事館員を船長室に招いて、私は真珠湾軍港の情報を聞いた。話を聞いては船橋に行き、直接に目で確かめる。2日になって、日本潜水艦が真珠湾口に現れたと新聞に報道された。警戒が厳しくなりかねないので、ここで一切書き物を残さない方針を決めた。ところが領事館員は軍事専門家ではないので、すべてを記憶するというわけにはいかない。領事館から船に毎朝新聞が届いたが、この中にメモが挟んであった。米国税関の検査は、当方が積極的に新聞の端をパラパラと見せるとすぐOKになった。紙片に書かれた米艦艇の入港日時・隻数などは片端から記憶し、紙片は焼き捨てた。日本海軍が張っていた情報網からも領事館に情報が集まっていた。10月21日(大洋丸入港10日前)撮影の真珠湾の空中写真も届いた。末端のスパイと一切接触はせず、船の上で情報を総合することに努めた。大洋丸の甲板を歩きながら、私は丸見えの真珠湾を見直した。戦艦8・空母3・甲巡11など、私の推算は正確で、戦後に米国側で大きな問題になったほどだった。私は大洋丸の船上でこの数字を出すと、何度も何度も検討を繰り返した。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p26-27 鈴木英)


昭和16年(1941)
○ホノルル出港は4日午後の予定だったが、私は船長に明日5日の真珠湾が見たいと頼んだ。船長は理由を聞かず引き受けてくれた。積み荷作業が意識的に遅らされたが、荷役が1日くらい遅れて出航が延びるのは商船では珍しいことでもないらしく、米国側もそれほど注意を払わなかった。5日(日)早朝、私はとび起きると船橋から真珠湾を眺めた。わざわざ出港を延期させて日曜朝の真珠湾を見た理由は、真珠湾奇襲は「やるなら日曜」とすでに計画があったからだ。週末で泊地に帰投した軍艦はフォード島の周辺に思い思いに碇をおろし、軍港は全く静かな休養の朝を迎えていた。これでよし、彼らは日曜は確実に休んでいる。大洋丸は5日夕刻、ホノルルの桟橋を離れた。次第に船足を速めて、オアフ島の姿が遠くなるにつれ、私は大声を上げて喜びたい衝動をどうすることも出来なかった。公海上での米軍艦臨検を警戒して、私は重要なメモを残さなかった。書類のまま持ち帰るものはコヨリによって紐として使い、それも燃やしやすい場所に置いて万が一に備える慎重さだった。帰路は往路より南を走ったが、これも後に機動部隊の帰路となった航路である。大洋丸にはハワイを捨てて故国に帰る日本人一世二世が多数乗っていた。彼らの中には飛行場の格納庫建築に働いた者が多く、この人々から格納庫の屋根の構造なども詳細に聞くことができた。心配した米軍艦の臨検もなく無事11月17日に横浜に帰着、着慣れた事務員服を軍服に着替え、直ちに大本営に報告した。12月8日未明、淵田中佐の発した「奇襲成功」の無電、引き続いて続々と東京に報告されてきた真珠湾軍港壊滅の勝報を、私は海軍省で素知らぬ顔で聞いていた。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p27-28 鈴木英)


昭和16年(1941)
○鈴木英は陸軍大将の息子であり、あの二・二六事件で瀕死の重傷を負った著名な海軍大将鈴木貫太郎侍従長の甥であった。彼の任務は、攻撃目標の正確な位置、使用爆弾の種類、緊急着陸可能な地点を把握だった。
(「大日本帝国の興亡 1」 毎日新聞社 1971 p259 Jトーランド)

昭和16年(1941)
○10月22日午後3時15分、ホノルル行き大洋丸は、横浜の大岸壁をはなれた。鈴木武と称した鈴木英少佐は船員手帖、森山と名乗った前島寿英中佐は船医の免状をもち、月給も船から支給され素性のばれぬよう極力神経がはらわれた。大洋丸は大本営の指示にもとづいて、一般航路からはずれた北方航路を進んだ。鈴木と前島はデッキに出て、やがてこの海面をハワイ奇襲艦隊が航行するのかと、深い感慨にうたれた。
(「大本営が震えた日」 新潮文庫 1981 p275 吉村昭)

昭和16年(1941)
 十月末ごろ、大洋丸船上の軍事オブザーバー二名が精密な気象データを集めた。同船は、ミッドウェーとアリューシャン列島のあいだを東進し、ついで南に向きを変えるという攻撃部隊とまったく同一航路を通って、ホノルルに入港したのである。二人のオブザーバーは、ホノルルに到着後、新たに港内の航空写真を撮り、役に立つ二、三の資料も入手した。たとえば、米艦隊はラハイナには集結しておらず、週末はあいかわらず休暇とレクリエーションで過ごすといったスパイ情報を確認している。
(「パールハーバー」 読売新聞社 1987 p352 Wohlstetter,Roberta)


昭和16年(1941)
○11月1日、大洋丸はホノルルに入港、出入港には海兵隊が10名くらいで検問する。船員が無線電信機の調整をすれば、監視所から直ぐ調査に来る。偵察に上陸すれば、すぐにオートバイが尾行してきた。
(「史観・真珠湾攻撃」 自由アジア社 1955 p188 福留繁)

昭和16年(1941)
○11月1日、ホノルルに入港した大洋丸で、日本大使館の喜多総領事は鈴木英少佐から97項目の質問を書いたコヨリを受け取ったが、その回答は海軍が領事館書記として潜入させた吉川猛夫が一人で書いていた。
(「週刊読売 21.49」 1962 p117 吉田俊雄)

昭和16年(1941)
○11月1日、大洋丸から私に持ってきた、軍令部の97項目の質問状には「ハワイの気象条件如何」とあった。私は次のように回答した。「ハワイには、30年来暴風雨なし。オアフ島の北側は曇天多し。北側より接敵し、ヌアヌパリを通り、急降下爆撃可能なり」。
(「真珠湾スパイの回想−東の風、雨」 講談社 1963 p64 吉川猛夫)

昭和16年(1941)
○11月5日7時30分、大洋丸に漸くホノルル出港許可がおりた。米軍の、帰国日本人に対する荷物調査や、乗務員への身体検査が厳しく、4日午後5時の出港予定が、崩れたのである。大洋丸の横浜入港は、順調にいっても11月17日になる。真珠湾奇襲部隊の呉軍港出撃日は11月18日となっていて、それに間に合うかどうか危ない。得られた情報を先発隊に伝えなければ無駄になってしまう。
(「大本営が震えた日」 新潮文庫 1981 p283 吉村昭)

昭和16年(1941)
○11月5日7時30分、米当局は乗客検査を入念に行い、結局、出港は午後7時半になった。ホノルルからの乗客の中には、真珠湾特別攻撃隊・指揮官付の松尾敬宇中尉もいた。もちろん官姓名は伏せての行動である。午後7時過ぎ、入港時と同様に水先案内人と、10人の海兵隊員が乗り込んだ。その一人に「何のため、こんな警戒厳重にする必要があるのかね」と私がたずねると、彼は「港口に、うようよしている機雷にひっかかって、爆沈すると、困るからさ」と、至極当然の顔で答えてくれた。無事、湾口に出た大洋丸は、警戒兵を退船させ、日本へのコースを走りはじめた。
(「週刊読売 34.24」 1975.6.7 p72 鈴木 英)

昭和16年(1941)
○松尾敬宇は、初め特殊潜行艇搭乗員として、真珠湾攻撃に参加するはずであったが、真珠湾偵察後乗船した大洋丸の横浜到着が遅れたため、別の搭乗員に決定した。
(「決戦特殊潜航艇」 朝日ソノラマ 1984 p45 佐々木半九)

昭和16年(1941)
○9月、野村吉三郎駐米大使は、ハル国務長官に禁輸の緩和を交渉、数週折衝の結果、貨物は積まない条件で日本船三隻の米国行きが同意された。第1船龍田丸軍令部中島湊少佐乗船10月15日横浜出航、山口文次郎大佐からの密書はオアフ島軍事施設兵力調査と地図を要請していた。第2船大洋丸は鈴木英少佐、前島寿英中佐乗船、10月22日横浜出航、奇襲攻撃計画航路をとった。千島列島南から原田敬助船長は東へ、さらにミッドウエー北方1000キロ辺から南東に転じ、南へ進んで西方からホノルルに近づいた。アリューシャン列島からの艦艇に、米国西岸からロシア向けの商船に、ハワイからの哨戒機に出会わないか二人の海軍士官は交代で注意深く水平線を見守った。オアフ島の北方と西方では、奇襲部隊を発見しそうな哨戒機、戦闘機、爆撃機、あるいは潜水艦、商船、漁船に出会わないか、鋭い警戒の目を光らせた。また一日のうち何回も、位置や天候を調べ、視界、風向、風力、海上状況など航空攻撃に必要な資料を集めた。ハワイまでの全航海では、どんな種類の船にも出会わなかった。大洋丸がホノルル港に入り、有名なアロハ塔に近い8号桟橋に係留したのは、11月1日土曜日の午前8時半、それはハワイ攻撃のほぼ予定時刻だったのである。大洋丸は5日停泊、鈴木、前島は上陸せず、喜多総領事が前後3回2人の館員を伴って大洋丸を訪ねた。鈴木は領事館にいて諜報活動をしている吉川書記生宛に長い質問状を書いて総領事に手渡した。質問は米軍の哨戒機の動向、索敵範囲などが中心だった。3日大洋丸はマストに満艦飾旗を掲揚、明治節を祝した。吉川書記生の真珠湾米海軍状況調査結果は、喜多総領事の指示で館員の一人が新聞の束に隠して大洋丸に乗船、両士官に渡された。11月5日水曜日午後7時37分大洋丸は8号岸壁を離れ、南雲機動部隊が帰路に予定のコースをとったが、一隻の船にも出会わず、ミッドウエーでも哨戒機を見ず、諸般の情勢は再び有利と思われた。大洋丸は17日朝、横浜港入港、白雪を頂いた富士山は、大洋丸の入港を歓迎するかのように輝いていた。午後、鈴木少佐と、前島中佐は、軍令部で永野修身総長、伊藤整一次長、福留繁作戦部長、富岡定俊作戦課長を前にハワイの視察報告を行なった。
(「トラトラトラ」 並木書房 2001 p140 Gプランゲ)

昭和16年(1941)
○「昭和16年11月17日、ハワイ方面偵察報告、海軍中佐前島寿英、海軍少佐鈴木 英」の表題がある大洋丸の1航海の報告は、海軍専用の罫紙26枚にぴっしり書かれ、航空関係、空母所在、海水透明度、防潜網の展張状況、気象などを網羅してた。
(「豪華客船の航跡」 成山堂書店 1988 p125 二口一雄)

昭和16年(1941)
○前島中佐、松尾中尉両人は11月17日帰着。直に呉に飛行し、打合せに出席して、湾口では防潜網が張ってあり、ワイヤーを張れば網が展開され、ゆるめれば網が海底につき、艦が通れるようになることなどを報告した。
(「決戦特殊潜航艇」 朝日ソノラマ 1984 p44 佐々木半九)

昭和16年(1941)
○鈴木英少佐は11月17日横浜へ帰着。翌夕刻出港する第三戦隊の比叡に木更津沖で便乗し、千島の単冠湾に至り、11月23日機動部隊に情況を伝えた。
(「史観・真珠湾攻撃」自由アジア社 1955 p189 福留 繁)

昭和16年(1941)
○11月、米国事情を探索した商船は、(1)竜田丸(中島湊海軍少佐・松尾敬宇中尉乗船)横浜発10月15日、23日ホノルル着、サンフランシスコ30日着、2日発、11月14日横浜帰着。(2)氷川丸(軍令部3部福島栄吉少佐乗船)10月20日横浜発、31日バンクーバ着、11月1日シャトル着、4日発、18日横浜着。(3)大洋丸(前島寿英中佐・鈴木英少佐乗船)10月20日横浜発、11月1日ホノルル着、5日発、17日横浜着であった。
(「東の風、雨」 講談社 1943 p72 吉川猛夫)

昭和16年(1941)
10月、日本政府が龍田丸を借り上げ引揚船として桑港まで運航、シャトル、ヴァンクーウバァーまで氷川丸が、ホノルルまで大洋丸が、それぞれ引揚船として運航された。
(「交換船」 新潮社 2006 p272 黒川 創)

昭和16年(1941)
○大洋丸はホノルルで引揚邦人447名を収容し、11月17日横浜に帰港したが、鈴木少佐らが集めた資料のはいったトランクの入手が、退船時の混乱で遅れ、関係部隊に説明のため出発するまでに受け取れなかった。
(「ハワイ作戦」 朝雲新聞社 1967 p297 防衛庁)

昭和16年(1941)
○鈴木少佐は1941年11月邦人引き揚げ船大洋丸に船員として乗り込みホノルルに数日間滞在、船内に留まって真珠湾情報を収集し、後11月17日帰国、戦艦比叡に乗艦してヒトカップ湾へ向かった。
(「そのとき、空母はいなかった」 文芸春秋 2013 p63-64 白松繁)

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昭和17年(1942)

昭和17年(1942)
○1月24日、捕獲船「多々良」に乗って黄浦江を下って呉淞沖の揚子江にでた。下江の途中で二隻の巨船に出会った。軍艦と同じ灰色に塗ってはいるが、日本郵船の大洋丸と新田丸で、船上に一杯に乗っているのは、ウエーキ島で捕虜になったアメリカ兵である。食料の不足している日本に収容せず上海につれて来たものに違いない。
(「造船士官の回想 下」 朝日ソノラマ 1994 p23 堀 元美)

昭和17年(1942)
○4月、兄の休暇が終わる日、私は兄を横浜港の船まで送って行った。兄は断ったが、母も強くすすめるから、仕方なさそうに承知した。私は大桟橋に繋留された船、大洋丸が意外に大きいのにびっくりした。船体がすべて灰青色に塗られていたが、元はドイツから来た豪華客船だ、ということだった。兄はその細い鉄階段をいくつも降りた大部屋で、一張羅の私服の詰襟を脱ぎ、白い厨房着をきると、「あとで伊勢佐木町へつれてくから、上で待て」とまた一緒に通路へ出た。私は広い厨房の蔭に立って、十人あまりの厨房員が、忙しなく働くのを眺めていた。その怒鳴るような声と、包丁や皿小鉢が立てる音。おそろしく長い時間なので、私は膝が痛くなった。たぶん三四時間は経ったろう。不意に眼の前の卓上に、ドスンと白い湯気をあげる飯の椀と、肉の煮つけが置かれ、中年の肥った厨房員が、「食べな」とこっちへ無愛想に声をかけた。
(「氷夢」 講談社 1989 p33 田久保英夫)

昭和17年(1942)
○5月4日、八田与一は、手紙で派遣隊が乗船する船、大洋丸について知らせてきた。大洋丸は民間船であるが、当時の民間船は「戦時海運管理要綱」で、50トン以上の鉄鋼船はすべて国家の管理下に置かれており、それらの船舶を一元的に運用する組織とて「船舶運営会」が設立されていた。また、陸軍と海軍が徴用して直接、作戦に参加する船舶があり、陸軍徴用船をA船、海軍徴用船をB船、船舶徴用船の用船をC船と呼んでいた。C船が誕生した経緯は国家総動員法によるもので、国が全船舶の使用権を独占して、船舶運営会に貸与するという形式になっていた。
(「百年ダムを造った男」 時事通信社 1997 p215斎藤充功)

昭和17年(1942)
○4月12日、グレナディア号は、太平洋に配備された56隻の潜水艦の中の一隻で、4月12日第2回作戦行動のため長崎に向けてハワイ真珠湾を出航し、東シナ海に潜行して日本の艦船を探し求めていた。
(「台湾を愛した日本人」 青葉図書 1993 p288 古川勝三)

昭和17年(1942)
○5月5日、岬のかげにやがて巨大な山のような大洋丸があらわれた。甲板が幾層あるだろう、まことに小山のように見える。1万4千5百トンの巨船であるが、甲板室がもう少しあれば、優に1万67千トンにはなる船である。艀が船に近づくにつれて、それはいよいよ見あげるような巨体にふくれて行った。私たちは高い舷梯を大洋丸へとのぼって行った。スチームウインチがごうごうと運転して艀から船倉へ荷物を積み込んでいる。積まれるものは缶詰だ。何千何万何十万というという牛肉の缶詰だ。こんなにも缶詰にするのだから、われわれの口にめったに牛肉がはいらなくなるのはもっともな話だ。次が野菜の缶詰だ。これも何万何十万というおびただしい数であろう。気がつくと船はいつのまにか出帆している。汽笛も鳴らさず、こっそりと行動しているのだ。軍というものはこういうものかとはっきり感じた。
(「中央公論 65.5通号735」 1950 p189 橋本徳寿)

昭和17年(1942)
○5月6日、陸上のホテルでもこれだけの部屋数をもっているホテルはあるまい。一等食堂でも帝国ホテルの大食堂よりも広く、豪華である。一等の娯楽室、喫煙室、サルン、物資ゆたかな時代に独逸で建造されただけあって、よいものを使っている。絨毯も厚い苔を踏むようで、ふかりふかりと靴が入り込む感じがする。しかし、この航海で豪華な部屋は全部三等室にされてしまっている。そこに三等客がふんぞりかえっている。わるい一等室よりも、この仮設三等室の方がよい場合がある。部屋々々をまわって、奇異だったのは、これだけの人数の船に女気がまったくないことであった。考え出すと、ひどく不思議に思われるのだ。前に書いたマレー婦人の黒一点はたしかにあるのだが、あれは女性という感じが全然しないから、問題とするには足りないが、女は仮設三等室の豪華なる部屋の一隅に横になっていた。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣発行所 1964 p10 橋本徳寿)

昭和17年(1942)
○5月5日、岬のかげにやがて巨大な山のような大洋丸があらわれた。甲板が幾層あるだろう、まことに小山のように見える。艀が船に近づくにつれて、それはいよいよ見あげるような巨体にふくれて行った。私たちは高い舷側を大洋へとのぼっていった。ボーイに船室をきくと、あちこちとひっぱりまわされて、結局もとのところへもどってきた。急にふやした船員もあろうし、船の勝手がまだよくわからないのであろう。部屋は2等の222号室、A甲板の右舷よりだ。舷側ではなく、もう一列内側である。舷窓がないから、熱帯圏内にはいったらさぞあつかろう。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣出版社 1964 p6 橋本徳寿)

昭和17年(1942)
○5月5日、大洋丸は南方占領地の経済開発に、一流企業から選抜された1360人を乗せ宇品港を出航、8日午後7時45分長崎県男女群島沖で、米潜水艦発射の魚雷4発が命中し大火災となり撃沈。817名が死去、543名が救助された。岳父金子誠一は当時熱帯文化協会理事で、台湾拓殖・古河鉱業に所属、南方における功績が認められ軍命令に応じたのであった。当日は米軍死守のコレヒドール陥落で、午後6時半1等船客食堂で祝宴があり、その直後の惨事であった。岳父は佐渡育ち、荒海で鍛えた水泳の名手、酒さえ入っていなければ波にさらわれることはなかったろうと思われる。
(「水口敏之遺稿・回想集」新風舎1999 p231)

昭和17年(1942)
○宇品を出てフィリッピンのリンガエンに向かつて直航しつつあった当時の日本有数の巨船大洋丸は、雷撃をうけて暗夜の東シナ海の波間にその姿を没した。同船は、第1次世界大戦の後で連合国側として日本が、吉野丸などと一緒にドイツからとったケープ・フィニスター号の後身であり、重ねがさね悲運の船であった。大洋丸と運命をともにしたのは910余名、生存者は541名。乗務員をのぞいた1100余名は、ほとんど民間人で、日本軍の占領していたフィリッピン、ボルネオ、スマトラ、ジャワ、ビルマの産業開発を推進するためにというので選抜された各界のエキスパートであった。「大洋丸とともに沈む」の筆者橋本徳寿氏は木造船技師として本邦の第一人者であり、また、古泉千樫門下の歌人で、歌集その他著書も多く、短歌雑誌「青垣」の主催者である。船内ではマライ分団第5班の班長であった。「大洋丸とともに沈む」は遭難1カ月後の6月5日に書き上げられ、爾来筐底深く蔵されていたものである。
(「中央公論 65.5通号735」 1950 p188 中央公論編集部)

昭和17年(1942)
○5月7日曇、六連島正午出帆。船列は大洋丸を先頭にして六隻なり。大洋丸に平行して駆逐艦一隻、前方に掃海艇一隻、最後部に掃海艇一隻つけたり」(ジャワ派遣大日本製糖社員関谷博手記)。
(「宝石 10.9」 光文社 1982 p214 高杉晋吾)

昭和17年(1942)
○5月8日、護衛艦なし丸裸船団というのがグレナディア号の艦長が潜望鏡で大洋丸船団を見たときの印象だ。「正午頃、男女群島を左舷に見たり。駆逐艦及び特設砲艦は大洋丸の前方八百米の海上を疎開して航行。午後4乃至5時二隻の護衛艦はいずれも基地に引き返したるものと見えたり」(陸軍省整備局交通課員吉田善三郎少尉手記)
(「宝石 10.9」 光文社 1982 p214 高杉晋吾)

昭和17年(1942)
 明44.8建造。大8第一次大戦の賠償船として日本政府が取得。大10.1大洋丸と改名、東洋汽船に運航委託。大15.5N.Y.K.に運行委託。昭4.5.4N.Y.K.に払い下げ。昭17.5.8六連からルソン島リンガエンに向け航行中、長崎県男女群島の南南西85浬(30.45N、127.40E)で米潜グレナディアGrenadier(SS-210)の雷撃を受け沈没。
(「日本郵船船舶100年史」<世界の艦船・別冊> 海人社 1984 p223 木津重俊)


昭和17年(1942)
○5月8日は大詔奉戴日で、船では早い夕食の膳におかしら付きで酒が1本ずつ出された。ちょうど食事が終わったとき、サロンのブザーが不気味な音をたて、「敵襲」と叫ぶ声がスピーカーから飛び出した。私は遠くでドーン、ドーンという、腹にこたえるような2発の爆発音を聞いた。咄嗟に敵潜水艦が出たなと思った。急いで船室に戻り、救命胴衣を着けて上甲板にかけあがってみると、九州の山々と五島列島の島影が5月の夕映えの空をバックにはっきりと見え、はるか水平線上に赤々と燃えて炎を吹きあげている大洋丸の姿を見た。デッキの手すりにつかまって船尾を見た。約100mの距離で難を免れたのであった。大洋丸は停船しているらしく、天をこがす炎が次第に近く見えてきた。18000トンの巨船には、シンガポールに向かう3000人ほどの軍関係者が乗っている。軍需物資も積んでいるはずである。吉野丸はジグザグコースで南に向かっていた。大洋丸の燃える火柱が、爆発音とともに一段と大きくなるのを見た。夜の闇が迫り、五島列島沖の暗い海面にただ一つポツリと光る大洋丸の燃える姿が、船尾の遠くにいつまでも見えていた。家に残してきた妻や母や子供は、もし明朝の新聞に「大洋丸沈没」のニュースが出たら、仏壇に燈明をつけて私の写真を飾ると思った。数日後に台湾の高雄に着くと、上陸する人に頼んで、無事航海をつづけていると家族にハガキで知らせた。大洋丸のことは検閲を考え、1行も書かなかった。そして、日本の領海内に敵の潜水艦が現れ襲撃されるようになったこれからの厳しい戦局を思わずにはいられなかった。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p不明 藤波健彰)


昭和17年(1942)
○5月8日、グレナディア号の艦長、ウイリアム・アッシュホード・レント中佐が、1300米の至近距離から、大洋丸めがけて4発の魚雷の発射したのは、午後7時32分11秒。音響担当者が「すべての魚雷、正常に走行」と報告、7時33分8秒に最初の爆発音が聞こえた。
(「台湾を愛した日本人」 青葉図書 1993 p288 古川勝三)

昭和17年(1942)
○5月8日午後6時52分、米潜水艦グラナディア号は男女群島を南下する船団を認めた。先頭の大型船を大洋丸と確認したのは午後7時、日没前に攻撃すれば、敵機や護衛船の反撃が予想される。日が暮れては、大洋丸を捕捉できない可能性もある。しかし大型船の撃沈は船団に最大の打撃を与えるだろう。グラナディア号のレント艦長は、日没前の攻撃を決断した。4発の魚雷が発射された。
(「企業戦士たちの太平洋戦争」 社会思想社 1993 p223 小田桐誠)

昭和17年(1942)
○要目、徴傭事項、遭難概況、大洋丸遭難者に対する給与の件、遭難顛末書、大洋丸遭難船員の件、大洋丸の件、大洋丸行方不明者戦死確認軍内報許可の件、大洋丸遭難行方不明者戦死確認名簿、大洋丸乗組死体検案書送附の件、大洋丸乗組員戦死者戸籍面抹消に関する件、大洋丸乗組員名簿
(「日本郵船戦時船史資料集」下 日本郵船 1971 p288-298)


昭和17年(1942)
○5月8日、外国航路客船の夕食時間は3等5時、2等は6時、1等は7時、大洋丸はそのルールを守っていた。私は5時からの3等食堂で1人前平らげたが、満足感がなかったので、2等食堂にもぐりこみもう1人前腹に納めた。7時半頃自室に帰る気のないまま2等船室の折り畳み椅子にすわり「ノモンハン戦記」を読み、生死の境は色々あるものだなと考えていたところ、出し抜けの大振動と大音響に床へ叩きつけられ、やられた、と自覚した。
(「まるゑむ 24」 江商社友会 1994 p21 鈴木康平)

昭和17年(1942)
○5月8日、調理手の江本要吉は戦争中に輸送船大洋丸の乗員だったが、船は撃沈され、漂流し、海と戦い、九死に一生を得た船乗りである。
(「文学界 55.7」 2001 p137 桂芳久)

昭和17年(1942)
○5月8日、田久保英夫の最初の長編小説「触媒」の中に、戦争末期、商船大洋丸の乗組員になって死んだ兄のことが描かれている。主人公がこの兄の死を回想するときの屈託は、なみの戦没者を思うのとはちがう暗さがつきまとっている。
(「文学界55.7」 2001 p139 桶谷秀昭)

昭和17年(1942)
○5月8日、灯火管制で細い光一と筋船窓からささいな真黒な大洋丸の船窓が一時にぱっとあかくなった。電灯であろうか、機関部はやられていないのだから、発電機は故障していないわけだ。あるいは船室に火がまわったのであろうか。いづれにしてもそれは命終の直前の一燦である。私は何かハッと胸をつかれた。船艙の火はしだいに消えて行った。浸水のために自然鎮火したのであろう。船はぱったりと灯が消えた。暗夜の海に真黒い船だ。もうしっかりと見えない。多分あれだろう、あの辺だろうと、見当をつけて目をこらしているだけだった。
(「素馨の花」 青垣発行所 1964 p17 橋本徳壽)

昭和17年(1942)
○5月8日20時35分、傾いていた本船は再び水平になり、また遂に船首を海面に突っ込み逆立ちし始め、海水は近藤輸送指揮官、吉田副官、原田船長、沖等の足下を洗い、相前後して海中に吸い込まれた。完全に沈没したのは20時40分前後、位置は北緯30度45分東経127度40分付近と思われる。沖は渦に吸い込まれて約1分後浮き上がることが出来、前面に6尺四方位の板が浮き上がりこれに掴まることができた。暗夜によくみると吉田少尉もこれに掴まっていた。大きな波浪に翻弄されながら漂流すること約3時間ほどたって、手足は凍えるばかり、沖も眠りに陥りそうになりながら、吉田少尉を励まし励ます。
(「日本郵船戦時船史資料集下」日本郵船1971 p289 沖義八郎)

昭和17年(1942)
○5月8日、日の落ちきる少し前、大洋丸に敵潜水艦からの魚雷3発が命中し、大洋丸は間もなく闇の海に沈んだ。乗員1500人のうち500名が助けられ、私もその一人だった。東京に還され、東京を再出発したのが7月13日、宇品を出帆したのが17日、今度は昭浦丸という6800トンの貨物船であった。潜水艦に襲われたりして、決して安らかな航海ではなかったが、8月7日に昭南(シンガポール)港に入港した。私は民間人として渡南した。南方で輸送船や漁船を無数に建造しようと思った。馬来軍政部海運科に行くと、私の著書「木造船と其の艤装」を唯一の宝典として、全南方に配布し150トンから250トンの輸送船建造に必死であった。
(「天草日記」熊本・本渡諏訪神社 1974 p77 橋本徳寿)

昭和17年(1942)
○5月8日午後8時過ぎ、大洋丸はドイツ船のため、舷側が高くて、ボートデッキから海面までは20m以上あったが、そこから飛び込む者もいた。大洋丸の周辺の海面には、黒豆を撒き散らしたように、人々の頭が浮かび、大きなうねりが押し寄せてくるたびに、黒豆は見え隠れした。「この夜の地獄でしたな...」三井物産のセメント部長だった、87才になる米沢嘉次郎は、そういって目を閉じる。
(「週刊ポスト 14.32」 小学館 1982.8.6 p212 片山 修)

昭和17年(1942)
○折あらば兄眠る海東支那海に行きてぞ逢わん五月八日に/百十七名の遺族らつどい長崎の本蓮寺の堂を埋めつくしぬ/生きてあらば六十五のわが兄の面わは今も若き日のまま/刻一刻変る夕焼けの空みつつ南に夢をかけし亡兄おもう/和夫という名を見るたびに夫・母の兄につけたる願いおもえり/「賀茂丸大洋丸洋上慰霊」[1986.7.19] 我が家族のそれぞれの事こまごまと書き瓶に入れ海に落しぬ/亡兄よ我が投ぜし瓶を逸早く拾いて読まん妹書ける字を/兄もまた語学学びて海外にゆかん情熱を語り合いしと/大洋丸遭難誌す碑とこしえに本蓮寺にあり子等に伝えん
(「歌集さくらの花」くらうん工房1999 p25-209 飯田富士江)

昭和17年(1942)
○5月5日、午後1時過ぎには、軍隊輸送用のハシケが回航され200余名が乗り込むと、小型蒸気船が沖合の大洋丸まで曳航を始めた。八田与一達も他の南方経済建設要員1010人とともに沖に向かい、大洋丸に乗船してみると、木で作られた偽装砲が取り付けられていた。これを見た与一は、「こんなもので、陸軍は何をするつもりなんだろう」とあきれた。大洋丸は午後7時半、宇品沖を出港して瀬戸内海を下関に到着し、炭水の補給を行う間に最後の手紙が許可された。甲板では偽装砲を取り除き、車輪付の野砲を据え付けていた。「こんな野砲をいくら船に積んでも役に立たない。無駄なことだ」と話していると、市川技手が現れた。お互いに船室番号を教えあって、再会を約束して別れたが、これが最後の別れになった。
(「台湾を愛した日本人」 青葉図書 1989 p284 古川勝三)

昭和17年(1942)
○5月8日、 日本最大の客船、日本郵船会社所属の大洋丸1万4500トンが米海軍潜水艦による魚雷攻撃によって撃沈された。私はこの悲報を基隆に向かう仏印からの帰り船の中で聞いた。死亡者のなかに、台湾総督府が誇りとした勅任待遇の内務局の土木技師、八田与一・荒木安宅の両技術者がいた。台拓では、創立以来からの親友、東谷政夫書記・見習社員だった佐藤文哉両君も乗船していた。後日聞いた話だが、東谷君は水泳が練達の人だった。佐藤君は金槌みたいで全然泳げない。荒波で炎上する船から流れ出た板切れに危うくつかまっている佐藤君の傍らを、東谷君は「おい頑張れ」といって、スイスイとクロールで泳ぎ去ったという。その東谷君が死亡し、佐藤君は救助されている。
(「台湾拓殖会社とその時代」 葦書房 1993.8 p332 三日月直之)

昭和17年(1942)
○八田与一は陸軍に徴用されてフィリピンにむこう途中、乗船の大洋丸が米潜水艦の攻撃をうけ撃沈されて死んだ。56歳であった。3年後に妻・外代樹があとを追った。外代樹は、医師米村吉太郎の娘として、金沢市上胡桃町(現・兼六元町)に生まれた。金沢第一高女を卒業すると、すぐ与一と結婚し、台北の官舎に住んだ。大正6年のことである。その後、2男6女を儲けた。八田与一も金沢の人で、明治19年(1886)に生まれた。四高を経て、東京帝大土木科を卒業、台湾総督府土木局につとめた。嘉義市から台南市までの野は、嘉南平野とよばれる、ひろびろとした平野であるが、不毛の土地であった。河川のうち官田渓と曾文渓をあわせたダムをつくる計画をした八田は、間の烏山嶺をくりぬいて水をダムに導く設計をし、施工した。大正年間のことである。3千米の隧道を掘るのに多くの死者がでたが、1億5千万トンの烏山頭ダムは東洋一になる。そこから嘉南平野に縦横にめぐらされた水路は、万里の長城2千7百キロに及ばないが、それでも1万6千キロもある。
(「台湾紀行−街道をゆく40」 朝日文芸文庫 1997 p228 司馬遼太郎)

昭和17年(1942)
○5月30日、八田与一の遺体は1カ月余り海中を流れていたためか、頭や手などの衣服を着けていない部分は、白骨化して、誰なのか分からなかった。ところが、衣服は完全で、内ポケットのなかの財布や名刺入はそのまま残っていたため、名刺から台湾総督府の八田技師と分かったのである。「嘉南大?の父」八田与一は、五十六歳の生涯を東シナ海で終えていたのである。
(「台湾を愛した日本人」 青葉図書 1989 p296 古川勝三)

昭和17年(1942)
○兄は第二次大戦の中期、二十歳で大洋丸という船に乗り、米軍の潜水艦の魚雷をうけて船とともに沈んだ。大洋丸は当時、豪華客船だったが、輸送船として徴用され、南方開発の多くの民間人や軍人を乗せて、長崎を出港してまもない時だった。家はもともと東京下町の料亭で、父はとうに亡く、母親がひとりで経営していたが、しだいに緊迫する国策に合わず閉鎖になり、兄は方々へ働きにでた。私はその頃十代前半で、兄は四歳上ながら染物屋、塗装屋、溶接工場など転々として働き、戦争の始まる少し前、日本郵船という会社の船に乗りこんだ。上海、大連、ハワイ、サンフランシスコから兄が手紙と一緒にくれた写真をまだ持っている。
(「朝日新聞 40436」 1998.9.29夕刊 p21 田久保英夫)

昭和17年(1942)
○大洋丸で死んだ兄の、生き残った若い同僚が家へ訪ねてきて、その前後の模様を母や自分に教えてくれたのだ。私の十一二の頃で、浅黒い健康そうなその男の顔を見ると、訪ねてくれた親切より、眼のまえの相手が生き残って、兄が死んだ不条理だけを、感じたのを憶えている。沈没したのは深夜で、同室の彼らはもうベットに入っていたという。船は大きな外航客船で、南方への輸送に徴用され、民間人や軍人も大勢乗せていた。他の船と船団を組み、護衛艦もついていたが、その船だけが突然暗闇の海から魚雷をうけ、殆ど瞬時に沈んだという。大きな衝撃とともに、同僚のベットの床は、僥倖にも扉口側へ傾いて、躰がそこへ投げ出され、急いで甲板へ階段を上ると、あとは客室から階段へ駆けよる人びとが蝟集した。それからすぐ電灯が消えたが、その直前人びとの中から、兄が一人だけ通路を船尾の方へ走るのを見た、と同僚は話した。
(「触媒」 文芸春秋 1986 p173 田久保英夫)

昭和17年(1942)
○田久保光太郎・戦死
(「日本郵船戦時船史 上」 日本郵船 1995 p79 大洋丸乗組員名簿)

昭和17年(1942)
○東支那海で大洋丸撃沈、帰京して再出発。その時茂吉は、南方占領地で木造船多数製造の指導に当たろうとする技師橋本徳寿を賞讃し励ます2首の歌を贈った。橋本は7月13日、宇品から貨物船で出帆、8月8日にシンガポールに着いた。
(「斎藤茂吉全集月報 17」 岩波書店 1971 p4 橋本徳寿)

昭和17年(1942)
○こうした計画やら空想やらに、はしゃぎきっているときだつた。「ドズーン」なんともいえない圧力のこもった重苦しい音と共に、船全体がはげしい衝撃をうけた。「やられたッ」永福・井上の両君が椅子からとびあがった。何にどうやられたのか、私には咄嗟には思いうかばなかつたが、すぐあとから浮流機雷に触れたのではなからうかと思った。両君は本能的に救命胴衣をつけはじめた.「ドズーン」「ドズーン」つづいて二発、船は小づかれて身ぶるいした。「これはいかん」私は船床からしずかにおりた。服はつねに着ている。鞄をはいた。洋服戸棚をあけた。さげてあつたレーンコートをすばやく身につけた。そのうえにカボックの救命胴衣をあたまからかぷり、紐を背にまわしてしばりつけた。そういううちにも船は左舷に傾くではないか。正しく魚雷だ。まちがいはない。時計を見ると7時45分だ。国民帽をか部ぶって船室をとび出した。両君はすでにとっくに飛び出してしまつた。私の部屋からは狭い喫煙室を抜けさえすれば上甲板だ。もうだいぶ時がたっているので、この辺にまごまごしている人もない。とび出した甲板はまだ夕あかりにあかるい。
(「中央公論 65.5通号735」 1950 p193 橋本徳寿)

昭和17年(1942)
○すでに大洋丸は船首の船艙から火を発して、艙口蓋板を噴きとばし、炎を赤く噴きあげている。そこからものが爆発して暗い空へたかくあがる初発は衝撃の感じからいつて、私の思うには、船尾荷足水槽のあたりに命中したのでは、あるまいか、これでプロペラーや舵をいためたのではないかしら。つづいた2発3発が船首船艙に命中した。そこにカーバイトが積んであつた。魚雷であけられた横っ腹から海水が奔流してきた。カーバイトガスが発生して引火した。あたかもガソリンタンクに火をつけたと同じ結果となったのだ。近くに手榴弾も積んであった。それが爆発して花火のように宙に噴き上ったのだ。誰いうとなく船尾の船艙には砲弾が積みこんであるという。その砲弾に引火したならば本船は木葉微塵に吹きとんでしまうことであろう。
(「中央公論 65.5通号735」 1950 p195 橋本徳寿)

昭和17年(1942)
○5月8日午後7時40分、突如ドカーンという大きな音響とともに大洋丸の船体は後方の海面下から異常な強い衝撃を受けた。魚雷襲撃だ。避難にかかる騒然たる人声、足音。混雑は次第に増してくる。第二の魚雷が船首近くに、続いて第三の魚雷が船の中央部に命中して、避難を急ぐ乗船客の群れに激しい衝撃と音響を伝えた。船は火災を起こして停止し、ボートは下ろされ始めた。12号艇が1、2間下りたところで平均を失って落下した。不安が頭をかすめる。見ると6号艇、8号艇も水中に没し、10号艇のみ波間に漂っているが、そこに集まっている人々だけでも乗れそうもない。
(「コンテナリゼーション120」 日本海上コンテナ協会 1979.10.20 p27 久芳昇)

昭和17年(1942)
○5月7日、大洋丸には一八隻の救命ボートが積まれていた。右舷に奇数の一から一七、左舷に偶数の二から一八号艇、乗員は一艇あたり四九人で、合計九八五人、船には定員を上回る一三〇〇人以上が乗っていた。8日午後二時避難訓練で、決められたボートの前に集合した時、万一の場合、30歳以下の者は、筏で避難することになった。肝心の訓練は、点呼だけで救命艇をおろす作業はなかった。
(「大洋丸誌」 大洋丸会 1985 p47 佐藤祐弘)

昭和17年(1942)
○5月8日、一発目の魚雷を受けてから一時間。近藤久幸輸送指揮官、吉田善三郎副官、原田敬助船長、沖義八郎一等航海士らは重要書類を海中に投下し、原田船長は全員退船を命じた。左舷に傾いた大洋丸はいったん水平になり、すぐ船首を海面に沈めた。「船はこれまでです」船長の悲痛な声が流れた。その時十数人が雪崩れのように海中に落ちた。浸水が激しく沈む寸前の12号艇に乗っていた武田博は、まだ灯かりをつけた大洋丸が、腰掛ける三人の人影と共に船首から海中に突っ込むのを見届けた。東洋鉱山の佐藤祐弘の耳には、大洋丸が沈没していく音が残らなかった。音もなくスーッと沈んでいったようにみえた。
(「企業戦士、昭和17年春の漂流」 朝日新聞社 p251-253 小田桐誠)

昭和17年(1942)
○五島列島を過ぎてから、僚船大洋丸が魚雷攻撃を受け、大火災を起こして沈没した。大洋丸は吉野丸と共にドイツから来た賠償船のカップ・フィニスター号であったから、元の船名クライストの吉野丸の乗組員にとっては、特に親近感もあって感無量なものがあった。大洋丸沈没後は吉野丸が嚮導船となり、船団をまとめて南下し、馬公、サンジャックを経て6月7日シンガポールに着いた。
(「帝塚山学術論集 1」 帝塚山大学 1995 p10 岡田泰治)

昭和17年(1942)
○5月8日、午後11時30分頃、暗夜の海上に探照灯の光、駆逐艦峯風と特設砲艦富津丸は、船団護衛に当たっていたが午後5時頃、帰路についていた。午後9時過大洋丸遭難の報に急遽反転、現場に到着。峯風の2等兵曹越智忠良は、そこでたしかに、得体の知れない叫びが海の底から湧きあがってくるのを聞いた。峯風と富津丸は救助活動に当たった。一夜明けると、風はやみ、海は穏やかになっていたが、あたりは死者の海と化していた。澄み切った海面に、白い救命具を身につけた死体が「へ」の字や、「く」の字に折れ曲がって、限りなく浮いていた。
(「大洋丸誌」 大洋丸会 1985 p47 佐藤祐弘)

昭和17年(1942)
○5月、日本綿花株式会社のビルマ派遣第2陣20人を乗せた大洋丸は、南方地域の天然資源を活用して経済開発をはかるために、民間から派遣された技術者や専門家1063人と軍人34人、乗組員263人、合計1360人を乗せ昭和17年5月5日宇品港を出発、7日、六連島で輸送船団を編成、駆逐艦など3隻に護衛されて出発、8日午後7時30分頃、長崎県男女群島、女島南南西の海上で敵潜水艦の雷撃を受けて沈没、817人が死亡し、543人が救助された。当社からの三分一克己社員を団長とする社員16人と嘱託3人、計13人が死亡した。大惨事であったが、軍の方針で詳細な報道が禁じられ、関係者にも緘口令がしかれたので、戦後になってようやく全容が明らかになった。 死亡者13人:三分一克己・徳田朝三・都築英吉・松下龍三・安司正隆・小坂正樹・上島一雄・松波光照・波多野稔・松山一雄・川西一馬・東郷政治・粟井政義。 生存者7人:岡 忠・佐々木民二郎・鈴木太一・滝川舒溥・尾崎 茂・三村光男・平岡虎雄
(「ニチメン100年」 社史編集委員会編 ニチメン 1994 p100-101)

昭和17年(1942)
○5月8日、吉野丸の僅か数メートル脇を魚雷が走り、大洋丸の船体に命中した。夕暮れの海上に大洋丸の炎上を見た私は、どうか沈みませんようにと祈った。しかし大洋丸は暗い波間に沈み、二千の同胞は玄海灘の藻くずと消えた。海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ・・・甲板で冷たい潮風に吹かれながら、私たちは二回繰り返して歌った。あちこちからすすり泣く声が聞こえた。私の頬も次々と溢れ出る熱い涙で濡れていった。大洋丸から吉野丸への乗船変更がなかったら今頃私は・・・身体中の震えが止まらなかった。
(「ジャングル記」 東都出版 1988 p25 高橋正子)

昭和17年(1942)
○従軍タイピストとしてボルネオに向け私達は宇品から出航しました。船は大洋丸の予定が直前に吉野丸に変更になりました。出航3日後船団が五島列島沖を進んでいたとき、ズシンという音と共に船体が揺れ、非常ベルが鳴り響きました。救命胴衣をつけタラップを昇り甲板に出ると夕暮れ時でした。並走の大洋丸が火と煙に包まれていました。魚雷にやられた、とすぐわかりました。私達に出来るのは祈ることだけでした。1時間ほどで大洋丸は沈み、2千人近い乗船者も海に消えてしまいました。私達は力なく甲板に座り込み「海ゆかば」を歌い、冥福をいのりました。
(「朝日新聞 43338」 2006.12.05日刊 12版p14 高橋正子)

昭和17年(1942)
○突然の乗船変更で吉野丸に乗船、マレーシア軍政監部に職員として赴任する高橋靖子さん(73)は、オレンジ色の火柱を上げ、暗闇にくっきりと浮かんだ大洋丸を船影を忘れない。元陸軍軍医で熊野市在住の医師小山宏さん(76)は、大洋丸に乗る予定を、乗船間際になって吉野丸に変更された。生死は紙一重である、大洋丸の甲板を行き交う人影が今も目に残る。戦後は医療と福祉活動に懸命に取組んでいる。
(「続・大洋丸誌」 大洋丸会 1995 p305 佐藤祐弘)

昭和17年(1942)
○八田与一氏は陸軍から南方開発派遣要員として招聘されます。その年の5月7日、1万4000トンの大型客船大洋丸に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸は沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年56歳でした。妻の八田外代樹は3年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず台湾から去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御年46歳でした。八田氏は「公に奉ずる」精神こそが、日本人本来の精神的価値観であると教えてくれました。
(「「武士道」解題−ノーブレス・オブリージュとは」 小学館文庫 2003 p308 李登輝)

昭和17年(1942)
○5月7日、午前8時30分、護衛艦北京丸で船団会議が開かれ、船団5隻のスピードを一番遅い御影丸の速力9ノット半に合わせることになった。航海速力14ノット、最大速力17ノットである大洋丸の原田敬助船長は、「そんなに速力を落とすと、機関整備が困難になるほか、敵潜水艦襲撃の危険率が高くなる」と強く反対したが、御影丸は海軍関係船であったため原田の要望は受け入れられなかった。
(「週刊ポスト 14.31」 小学館 1982.7.30 p217 片山 修)

昭和17年(1942)
○5月8日午後6時52分、米潜水艦グラナディア号は男女群島を南下する船団を認めた。先頭の大型船を大洋丸と確認したのは午後7時、日没前に攻撃すれば、敵機や護衛船の反撃が予想される。日が暮れては、大洋丸を捕捉できない可能性もある。しかし大型船の撃沈は船団に最大の打撃を与える。グラナディア号のレント艦長は、日没前の攻撃を決断し敵からの反撃を甘受することにした。4発の魚雷が発射された。
(「企業戦士たちの太平洋戦争」 社会思想社 1993 p223 小田桐誠)

昭和17年(1942)
大洋丸 14453総トン 日本郵船 17年5月7日12・00門司発、昭南に向け航行中、8日19・45頃N30・45−E127・40(男女群島南西170キロ付近)にて被雷、第1弾が左舷船尾、第2弾が同2番艙に命中し搭載中のカーバイトが発火、船体全部が忽ち火の海と化した。火災は更に拡大し船底では猛烈な浸水で船体が傾斜し、20・40頃沈没、船客660名、船員157名戦死。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p71 池川信次郎)

昭和17年(1942)
○5月17日、大洋丸の神戸出帆を見送った色部要は長崎に急派された。救助船の名が偶然吉野丸であったが、その吉野丸に乗船、捜査船団の指揮者となった。船団は福江島、嵯峨島付近を捜索、夜疾風で波浪高く航行困難となり、吉野丸は夜10時半福江島大浜沖に投錨。18日北東の疾風、海は時化模様、吉野丸は午前4時大浜を抜錨、大瀬崎を通り西に25哩進んだが一日中巨濤を被り、午後は漁船員船酔、暮色迫り豪雨、玉之浦発見できず、午後8時陸岸近く投錨。19日未明から捜索、時化収まらず捜索中止、玉之浦役場に集合して情報交換をなす。20日吉野丸ほか3隻は、大瀬崎西方25哩を捜索。26−29日陸軍御用船到着、漁船4隻と済州島付近を捜索。27日強風福江島の荒川に避難、29日済州島投錨。無線機なく手旗信号解せず、相互連絡不能。30日早朝抜錨、日和回復し午後5時牛島対岸帰着、夕方済州島北岸の細花浦に漂着の8遺体中に、金筋4本の船員服姿があるという知らせに、疲労の極にあった色部が現場に急行。頭部は白骨化していたが、鼻下の肉片に原田敬助船長の薄髭を発見して、顔面骨格、身長と袖章により、色部は原田船長にちがいないことを確認。その無惨な姿に、色部は男泣きに泣いた。
(「日本郵船戦時船史 上」 日本郵船 p72-74 沖義八郎)

昭和17年(1942)
○松尾中尉は大洋丸撃沈23日後の5月31日、他の2隻の特殊潜航艇とともにシドニー軍港に潜入し米重巡シカゴに魚雷を放とうとしたが爆雷を浴びて沈んだ。
(「20世紀全記録」 講談社 1987 p619)

昭和17年(1942)
○8月27日、台風と高潮で九州・四国に被害、死者・行方不明1158人、全壊流失3万3283戸。18年9月10日、鳥取大地震で死者1210人、家屋全焼1万3295戸。同9月20日、西日本の台風で死者・行方不明970人、家屋全壊6574戸。これと米潜水艦の魚雷攻撃で沈没した南方派遣の「大洋丸」の死者817人(17年5月8日、民間技術者が多い)、関釜連絡船が撃沈され死者544人(18年10月5日)などは、大惨事ながら一般には隠された。
(「近代日本の戦争」 岩波ジュニア新書 1998 p64 色川大吉)

昭和17年(1942)
○10月8日、日英民間人の交換船任務を終えて横浜に帰港した日本郵船の鎌倉丸(旧名秩父丸)は、戦前姉妹船の浅間丸、竜田丸、大洋丸とともに北米航路に就航していた1万7千トンの豪華客船で、10月15日付で再び海軍徴用船に復帰、満員の客は主として蘭領インド各地へ赴任する司政官や軍属、看護婦らだった。同じ任務で南方に向った大洋丸が5月8日に米潜水艦に撃沈され、ほとんど全員が死亡するという惨事の後だったために、護衛は厳重を極めた。前方と左右に駆逐艦がつきそい、出航後しばらくは飛行機が1機上空を警戒、3昼夜ほどたつと駆逐艦2隻は南支那海の真ん中で姿を消し、残る1隻の駆逐艦に守られて穏やかな海上を南下、1週間たらずでマカッサルに到着した。これが鎌倉丸の海軍徴用船に復帰した最初の航海だった。
(「海軍病院船はなぜ沈められたか」 芙蓉書房 2001 p51 三神国隆)
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昭和18〜20年(1943〜1945)

昭和18年(1943)
○大洋丸を沈めた米潜水艦のその後。マレー半島西岸のペナンには第一南遣艦隊の第九根拠地隊があった。1943年4月20日午前10:30、ペナンに派遣されていた第九三六航空隊の艦攻1機が、プーケット島沖で浮上潜水艦1隻を発見。米潜水艦「グレナディア」であった。同艦は1941年に就役したタムボー級(1475基準トン/水上)の一艦。オーストラリアのフリマントルから出撃し、これが6回目のパトロールだった。4月20日夜、ペナン北西のレムボワラン海峡で2〜3隻の船団を発見した同艦は、これを追跡中に見失い、再度発見した船団を襲撃準備中に、日本機の攻撃を受けた。同艦は直ちに潜航したが、深度35m付近で対潜弾が命中炸裂、機関コントロールルームと後部発射管室の間に命中。船体後部とハッチは破壊されて浸水、動力を失ったが、浮上して低速航行が可能なよう修理した。4月21日午前03:20、船団2隻護送中の特設砲艦がグレナディアを発見したが見失った。翌朝09:05、第九三六航空隊の一機がグレナディアを再発見。九七艦攻の爆撃を受けた同艦は機銃で反撃したが、09:30特設捕獲網艦長江丸が駆けつけて砲撃を開始するに至り、艦長フィッツジェラルド少佐は艦の放棄を決意、白旗を揚げて降伏した。10:00船体が沈みはじめ、乗員は海上から救助され、士官8名、下士官兵30名が捕虜となった。戦後帰還したのは艦長以下6名と言われている。なお「グレナディア」の戦果は、1942年5月8日に日本郵船の大洋丸を沈めたのが唯一であった。
(「敵潜水艦攻撃」 朝日ソノラマ 1989 p63-65 木俣滋郎)


昭和18年(1943)
○4月20日、大洋丸を撃沈した米潜水艦グレナディア号は、開戦以来6回目のパトロールに、オーストラリアのフリーマントルから出撃、マレー半島西岸のペナン北西レムボアラン海峡で日本の船団を発見、襲撃準備中に、午前10時30分、日本軍第九三六航空隊の艦攻1機に攻撃された。ただちに潜航したが、投下された250キロ対潜弾が深度35mで炸裂。機関コントロール・ルームと後部発射管室の間に命中し、後部船体とハッチを破壊、浸水して艦内照明は消え、動力も失われた。海底80mに座礁したが浮上して修理につとめ、漸く低速航行が可能なまでに回復した。21日午前3時20分、船団を護送中の特設砲艦江祥丸が、グレナディアを発見、3時間追跡したが見失う。9時45分、九七艦攻と陸軍機が飛来したが発見不能。翌22日午前9時5分、第九三六航空隊の1機がグレナディア号を再発見、九八艦攻の爆撃を受けたグレナディアは機銃で反撃、9時30分、第9根拠地の特設捕獲網艦長江丸が駆けつけ砲撃を開始するに至り、艦長フィツジェラルド少佐は艦の放棄を決意、白旗を掲げて降伏、10時、船体は沈みはじめ乗員は海上から救助されて、士官8名下士官30名が捕虜となった。ペナンに連行された乗員は、日本側の訊問を受けた。戦後帰還できたのは、艦長以下6名、他の乗員については明らかでない。なお、グレナディアの大戦中の戦果は、大洋丸1隻であった。
(「敵潜水艦攻撃」 朝日ソノラマ 1989 p63-65 木俣滋郎)

昭和18年(1943)
○8月、日本から同盟国ドイツへの連絡艦伊号第8潜水艦の航路予定路、スペイン沖であるフィニステレ岬からオルテガル岬間に敵イギリスの有力な艦艇が哨戒にあたっているという駐独日本大使館からの機密電が来た。ドイツ空軍は、伊号のオルテガル岬沖合突破を援護するため、通過時刻にイギリス海軍の哨戒部隊を攻撃する計画をたてているが、それが、果たして成功するかどうかは予測できなかった。
(「吉村昭自選作品集 4」 新潮社 1991 p118)

昭和18年(1943)
○昭和18年の暮れ近く、(前田利為ボルネオ軍司令官の遺言できたような太平洋戦争占領地で唯一の文化映画「キナバル山」の)撮影済みのフィルムを持って、私は内地に帰還した。南方ボケの私の頭と皮膚は、内地のきびしい冬の寒さに悲鳴をあげた。二年ぶりの対面で、家内が口にした最初の言葉は、五島列島沖で起こった大洋丸撃沈で大洋丸に私が乗り込んでいたとばかり思っていたので、仏壇に写真を飾り、毎朝夕お経をあげていましたとのことだった。戦時下の家庭に、こんな話は幾らもあったろう。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p252 藤波健彰)

昭和18年(1943)
○昭和18年の暮れ近く、撮影済みのフィルムを持って、私は内地に帰った。南方ボケの私の頭と皮膚は、内地のきびしい冬の寒さに悲鳴をあげた。2年ぶりの対面で、家内が口にした最初のことばは、内地出発直後、五島列島沖で起こった大洋丸撃沈事件のことであった。家内は私が大洋丸に私が乗り込んでいるものと思い込んでいたので、「詳報がくるまで仏壇にあなたの写真を飾り、毎日朝夕お経をあげていましたよ。顔を見るまでは本当に後家さんになったのじゃないかと思っていました」といった。戦時下の家庭に、こんな話はどこにでもあったことだろう。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p252 藤波健彰)


昭和18年(1943)
4月28日午前2時過ぎ、マニラからボルネオのバリクパパンへ向う単独航海の途中、米潜水艦によって右舷に2発の魚雷を受けて沈没した。約2500人の海軍軍人と軍属(150人は婦人)の乗船者、180余人の乗員のうち生存者は462人に過ぎなかった。太平洋の女王と謳われた豪華客船とともに2000人を超える人々が南冥に消えた。
(「海軍病院船はなぜ沈められたか」芙蓉書房 2001 p51 三神国隆)

昭和19年(1944)
日高丸 5468総トン 日本郵船 19年1月9日11・00パラオ発、佐伯向け航行中、20日01・03頃N31・32−E135・58(室戸岬南東260キロ付近)にて左舷4番艙後部に被雷、航行不能となり漂流中、14・56船尾より全没、便乗者14名、警戒隊1名、船員1名戦死。*大洋丸撃沈時17年5月8日同船団の1隻。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p184 池川信次郎)

昭和19年(1944)
○5月8日、今日は私にとっては東支那海遭難記念日だ。いま夜の22時だ。すでに大洋丸も沈んでしまい、真っ暗な海上を、激浪にボートがひっくりかえらないように、みんなで力をあわせている頃だ。私は絶対に死ぬとは思わなった。人間にはなんか感じというものがあるのだ。死ぬときには、今度は駄目らしいという予感があると思う。私はそんな感じをうけたことはまだ一度もない。私はまだまだ生きて働けるだろう。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣出版社 1964 p231 橋本徳寿)

昭和19年(1944)
○5月29日、私ももう死ぬ時期かも知れない。死ぬなら、こんどのボルネオ行きで敵機との遭遇戦でひと思いに散ってしまいたいものだ。なんだかそうなりそうな気もする。芝浦電気の青山嘱託が日本に帰還する。その送別会の昼飯を高等官集会所で食べた。日本料理だった。私などはじめから南方の土になる覚悟で出てきたのだが、こうしてちょいちょい帰る人を送ると、意気地なく心がぐらつく。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣出版社 1964 p235 橋本徳寿)

昭和19年(1944)
北京丸 2288総トン 大連汽船 19年7月15日12・10海南島三亜発、高雄向け船団護衛にあたった、19日朝帝竜丸が雷撃を受け沈没した為同日18・08北サンフェルナンドに避泊する為進路変更、21日22・55頃N17・31−E120・22(ルソン島ビガン南南西7キロ付近)にて座礁、28日雷撃を被り大破、放棄となる。*大洋丸撃沈時17年5月8日、同船団の1隻。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p266 池川信次郎)

昭和19年(1944)
○7月、吉野丸は、宇品港で第三三兵站病院部隊、門司から関東軍南方移動部隊、合計六千近い大部隊を乗せていた。私たちが、このバシー海峡渡洋船団のなか、没寸前の吉野丸のすぐそばを通り過ぎたのは、7月31日の午前5時過だった。吉野丸は、左舷に傾斜し、前部甲板上はすでに白波が打ち上げ中央船室部、上甲板には乗船部隊の大群集がなすすべなく、阿鼻叫喚のさまが視認できた。魚雷三弾を受けた船体の傾斜で、逃げ惑う人々は足場を失い、海中になだれ込み、船内に多くの兵隊たちを道連に、吉野丸は間もなく船首部から静かに海中に没した。
(「戦記最後の輸送船」 成山堂書店 1982 p73 竹内いさむ)

昭和19年(1944)
吉野丸 8990総トン 日本郵船 19年7月29日05・00高雄発マニラ向け航行中31日03・40頃N19・05−E120・55(ルソン島マイライラ岬北方36キロ付近)にて右舷2、3番艙に計2発被雷、激しい浸水の為03・47船首より沈没、部隊員2442名、船砲隊18名、船員35名戦死。*大洋丸撃沈時17年5月8日、同船団の1隻。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p267 池川信次郎)

昭和19年(1944)
御影丸 2741総トン 武庫汽船 19年10月22日14・00門司発、マニラ向け航行中、24日01・23頃N32・56−E125・54(済州島西端南西50キロ付近)にて複数の敵潜から攻撃を受け被雷04・30頃沈没、船員27名戦死。*大洋丸撃沈時、同船団の1隻。
(「戦時艦船喪失史」 元就出版社 2004 p321 池川信次郎)

昭和19年(1944)
○12月19日、昨日会社から私の船図をみんな研究所に持ってきた。これは日本から私が持ってきたものだ。私が長い間、三十年もかかってした船の仕事の蓄積だ。青写真が主だが、かさねて二尺ばかりの高さになる。どの船にも、どの図1枚にも私の命がこもっているのだ。これを分類整理したのだが、木堂中尉と二人で丸一日かかった。こちらで暮らすつもりで来たので全部もってきてしまったのだ。もっとも初発の航海で、大洋丸でこのくらいを海に沈めてしまったのであった。
(「素馨の花−吾が南方日記」 青垣発行所 1964 p309 橋本徳寿)
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戦後

昭和22年(1947)
○5月26日、天草高校で13時40分から話をはじめる。広い講堂に800人余の生徒でいっぱいだ。はじめは万葉集や、わかりやすい啄木の歌を引いたりして話したが、どうも生徒の顔いろは面白くなさそうである。で一転して「大洋丸」の魚雷遭難の体験談をした。これは生徒が大いに聴いてくれた。私の話の要点は、身に迫る危険な大事に処するにあわてるな、落ちつけということにある。1時間と言われたのを1時間15分話した。よくわかったそうだ。
(「天草日記」 本渡諏訪神社 1974 p129 橋本徳寿)

昭和50年(1975)
○3月、大洋丸撃沈事件で死去した岳父は、青年時代から南方の拓殖に従事しており、事件当時は熱帯文化協会理事で、台湾拓殖・古河鉱業に所属しており、南方における功績を認められての軍命令に、勇躍して応じた。その日米軍死守のコレヒドール島陥落があり、祝宴がはられた。惨事はその直後におこった。岳父は佐渡の荒海で鍛た水泳の名手だったから、酒を飲んでいなければ、死ななかったと思う。家内は今でも岳父の話をすると、壮途空しく散った父の死を悼んで泣く。昭和50年3月家族で九州旅行の際「勝海舟寓居跡」の碑が目にとまって、日蓮宗本蓮寺の境内に足を踏み入れた。そして一隅に「南方産業建設殉職者之碑」を発見。原爆をうけて黒ずんでいるが、大洋丸で遭難した方々の慰霊碑であった。原爆で本堂を始め、碑の周辺が吹き飛ぶ中で残っていた碑、関係者も知らなかったこの碑の発見が、その後慰霊祭の実現にまで発展することになった。
(「水口敏之遺稿・回想集」 新風舎 1999 p231)

昭和50年(1975)
○大洋丸の事務長の妻斎藤邦江は戦後長くアメリカ大使館で働き、小中陽太郎の米国渡航を援助。小中がフルブライト交換教授となっても司法省はベトナム反戦運動をした小中に旅券を出さない。斎藤は大使館に日参する小中を上司に紹介。夫の船を沈めた元敵国の大使館に30年も勤めた妻の気持ちはどんなものだろう。
(「ラメール母」 平原社 2004 p43 小中陽太郎)

昭和53年(1978)
○大洋丸会の設立総会は、6月8日東京大手町経団連会館で行われた。現フィリピン在住の加納照雄氏が、日本シルバーボランティアズの佐藤祐弘氏を訪ね、共に大洋丸遭難生残りであることを知ったことに始まる。戦後長く埋もれた大洋丸遭難の事実を語り継ぎ、記録の収集・編纂を行ない、殉難者諸兄の慰霊・供養としたい願いからであった。そこに加納氏の友人で、生き残りの関谷博氏が加わった。
(「大洋丸誌」 大洋丸会 1985 p116 佐藤祐弘)

昭和61年(1986)
○大洋丸は昭和17年5月、賀茂丸は昭和19年7月、いずれも米潜水艦に雷撃され、長崎五島列島沖で沈んだ。大洋丸で兄を亡くした府中市の主婦飯田富士江さんと、賀茂丸で父を亡くし銀座で中華料理店を経営している市瀬澄子さんたちは、船をチャータして、洋上慰霊祭を計画中である。市瀬さんは女手ひとつで店をおこし、戦後の混乱期を乗り切ったが、戦争で海に沈んだ人たちの無念さを想い、父を奪ったその海上で慰霊祭をしたいという夢をずっと持ち続けてきた。その気持ちに火をつけたのが昨年夏の戦艦大和の発見と遺品引き揚げ。場所は賀茂丸のすぐ近くの海域だった。ほかの遺族も同じ気持ちのはず、と参加を呼びかけたところ、大洋丸の犠牲者の慰霊も一緒にさせてと飯田さんが申し出た。船は昭和61年7月上旬、長崎を出る。
(「サンケイ新聞 15708」 1986.5.7夕刊 p3 相馬勝)

昭和61年(1986)
○7月19日、 母と一緒に東シナ海の海へ、長崎から船で行ったことがあった。戦後、同じ輸送船の殉難者の家族会ができ、その肝煎りで、有志三十組あまりが船に集まった。推定の沈没海域は、長崎から二時間ほどの意外に近い距離だった。風の冷たい早春で、うねりの高い海面へ、自分たちもほかの家族にならって、百合、薔薇、菊などをひと抱えにした花束を投げた。海暗という言葉を思い浮べるほど、海は黝ずんだ青さで、それをほとんど何の感情なく見つめていた。ただその海底の兄と、何か呼応するものが生まれるのを待っていた。
(「新潮現代文学 75 花闇・深い河」 新潮社 1981 p356 田久保英夫)

平成6年(1993)
○5月21日、毎日新聞朝刊社会面で大洋丸会のことが紹介されたところ、大洋丸の16ミリフィルムを保存していた神奈川県鎌倉市の主婦杉田操さん(70)が記事を読んで同会に連絡。コピーしたビデオを資料として寄贈した。7日の大洋丸総会では代表世話人の佐藤祐弘さん(74)が杉田さんから寄せられたフィルムを万感の思いで公開させていただく、とあいさつ。杉田さんがフィルムにまつわる話を披露した。
(「毎日新聞 42436」 1994.5.8朝刊 p20)
posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 15:58| Comment(0) | 明治時代〜戦後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする