2015年04月15日

今日の新着

新しい記事を「昭和7年」に追加しました。

昭和7年(1932)
○横浜解纜からロサンゼルス到着までの選手団の行動を、『アサヒ・スポーツ』掲載の船中通信により紹介。7月1日:朝6時、船員が洗浄した水だらけの甲板の上を、お下げ髪に水兵服の女子選手が一人で足の練習。他の誰もがまだ起きない早朝に一人精進しているのは女子水泳トップの前畑嬢。レスリングの加瀬5段などが駆け足を始める。6時半になると拳闘のファイトマネジャーに率いられた5選手がデッキ回りの練習、特に亀岡選手の熱心さが目立つ。その他選手も思い思いの練習を行い、7時には朝食。AKの3アナウンサーはラジオ体操を聞くためラジオ前に集合。この日、空はやや曇ってはいるが波は穏やか。船は横浜から350海里。時速16海里でロサンゼルスに向かっている。7月8日:船は南に3000海里航行。暑さが加わり時に驟雨のため練習が妨げられる。女子陸上競争チームはバトンのタッチに村岡・柴田の2嬢が進境を示す。女子陸上競技選手は五輪で勝つまで菓子断ちを決定。女子水泳では前畑嬢が200mブレストで、短いプールながら2分59秒のタイムを出した。(甲板での集合写真2枚あり:全員、レスリングチーム)
(「第十回オリンピツク大寫眞帖」 帝国公民教育協会 1932 p14)
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2015年05月05日

今日の新着

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昭和7年(1932)
○往航の乗船は第一隊龍田丸(陸上男子、水上男子競泳)第二隊大洋丸(陸上女子、水上ウォーターポロ、女子競泳、ダイビング、漕艇、ボクシング、レスリング、ホッケー、体操)。第一隊は満足な航海を続けたようだ(が、第二隊は選手団の不満が強かった)。船内をかなりの程度自由に使用しうるものと予想していたが、出帆後船内使用規定を聞いて唖然。「特殊の好意」によって一等デッキを使用できるのは限られた練習時間のみで、それ以外は厳格な船内規定で乗客の等級を厳密に主張励行されたため、30〜40坪の日陰のないデッキに50脚以上の椅子を並べて炎天下に転寝をむさぼる航海だった。総じて大洋丸の幹部諸公は一行に冷淡な印象を与えた。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p275)
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2015年05月06日

今日の新着

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昭和7年(1932)
○一行が携帯する荷物の処置。往路第1船で会長の荷物1個紛失、以後は特に警戒し、往路第2船と帰路全員の荷物は問題なかった。ただし、往路第2船のロス上陸の際、かねて開封しないと約束されていた一行の荷物が、税関吏により大半開封を命じられ、交渉して先方が了解した頃には大部分の開封検査が終了していた。米国側は酒類を食料として携帯する場合は許可する方針であったが、日本監督団は独自に酒類の不携帯を決めた。ところが日本選手の酒類携帯が新聞に報道されたため、税関として職責上黙過できないとなった。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p276)
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2015年05月07日

今日の新着

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昭和7年(1932)
○大洋丸に乗り込んだ日本チームの陣容。(1)本部役員:平沼団長、今村顧問、郷名誉主事、佐藤会計部長、渋谷総務委員、野口会計主任、李庶務主任、斎藤医員。(2)女子陸上:役員2名、選手9名。(3)女子競泳:杉本コーチ+選手6名。(4)飛込:島崎コーチ+男子選手3名女子選手1名。(5)水球:選手9名。(6)漕艇:役員コーチ4名選手18名。(7)拳闘:役員2名選手5名。(8)レスリング:佐藤監督+選手5名。(9)ホッケー:広瀬監督+選手13名。(10)体操:役員3名選手6名。(11)芸術競技:神津氏。(12)マッサージ:3名。その他:嘱託4名。すなわち合計106名という大チームである。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p306)
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2015年05月08日

今日の新着

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昭和7年(1932)
○船上でのトレーニング状況を各種目別に記載。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p306)
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2015年05月09日

今日の新着

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昭和7年(1932)
○6月30日午後3時、オリンピック船大洋丸は怒涛のような万歳の嵐に送られ、ロサンゼルス目指して4号岸壁から静かに滑り出した。
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p325)
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2015年05月10日

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昭和7年(1932)
○7月11日、大洋丸の今村次吉氏(顧問)宛て、沢田理事より打電。「市の補助金2万5千円、13日市会にて可決の筈、直ぐ貰う積り」
(「第十回オリムピック大会報告」 大日本体育協会 1933 p326)
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2015年06月22日

今日の新着(1)

新しい記事を「大正10年」に追加しました。
各年の記事ページは、梨木収録の記事に限り、文字色を緑色としました。

大正10年(1921)
○(■「政府委託船大洋丸」で1節。)独乙の戦争賠償船として、日本は4隻の船舶の交付を受けた。これらの船は日本郵船が政府の委託を受けて独乙より日本に回航したが、その中で一番大きいのがカップフィニステル号(14458総トン)、次はクライスト号(8999総トン)、残り2隻は小さな船であった。一番大きな船であったカップフィニステルも、当然日本郵船が引き受けて運航すると思われたが、日本郵船では回航時の経験から、豪華船であっても不経済で、しかも航海上安定を欠きやすいとの理由で、引き受けることを断った。同船には高いボートデッキにあたるところに大きな石でできたスイミングタンクがあり、航海中船客が水浴できるようになっていた。また、食堂の天井が高く、気持ちの良いものであったが、それだけ船体の上部が重くなり、いわゆるトップヘビーであった。しかも同船は南米方面への定期航路に使うため、河川用に適するよう吃水を浅くしており、これらが安定性を不十分にしていた。姉妹船の1隻は地中海で安定を失って転覆沈没した。また、燃料の石炭消費も比較的多かった。これらにより、病院船や海上ホテルなどで使用する案も出たが、結局このような豪華船舶の使用は桑港線を持つ東洋汽船以外にないとして、高橋是清総理大臣・野田卯太郎逓信大臣から浅野社長に依頼があって引き受けた。浅野は同船の日本到着時から性能や欠点など十分研究していたため、対策が考えられ、桑港線に使用しても相当の利益をあげうるとの見通しもついていた。同船は大正10年3月政府(大蔵省)から委託され、横浜で受け取って長崎に回航、三菱造船所で改造と破損復旧工事を約30万円で施行し、船名も大洋丸と改称した。変更工事の主なものは、アンチローリングタンクを簡単な外部タンクに付け替え、船底バラストの増量、バラストタンクのポンプ等の機動性を高める調整など。その他、貨物積載時に重量貨物を下艙に、軽量貨物を上艙に積んでトップヘビーを防ぐなど、運用面で配慮することにした。かくて工事が完了し、大正10年5月14日長崎を出帆、まず上海に至り南下、マニラ経由香港で米国その他向け貨客を積んで同港発、桑港線初の航海に赴いた。(大洋丸写真2枚有)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p187-190)

大正10年(1921)
○当時大洋丸は航海上不安定で危険であると噂されていたので、浅野社長は安全に航海できることを世間に周知するため、荷主その他関係者への挨拶に、自ら同船に乗って香港へ向かった。その際、安田銀行の安田善次郎頭取も同行した。一行は、安田側は安田翁・令息善雄・井上権之助秘書の3人、東洋汽船側は浅野社長・さく子夫人・慶子令嬢・小松隆秘書役・大胡強参事の5人であった。大洋丸はベテラン東郷正作船長のもと、大正10年5月14日空船で長崎に出航し上海に向かった。呉淞(上海市)で当地の知名士多数を招待、安田翁と浅野社長が交々立って演説した。大洋丸は上海からマニラに直航、さらに5月23日香港に入り、それぞれの地で関係者多数を船内で歓待した。また、そのころ広東にいた支那革命の頭領である遜逸仙が、浅野・安田両氏を広東まで招待した。大洋丸は5月27日香港発、呉淞を経て6月1日長崎着、神戸・横浜を経て桑港線に就航した。浅野社長は安田翁に今後の事業の計画を説いて金融を依頼したと思われる。また、世間で問題視されていた大洋丸は、日本の大実業家と大金融家が定期航路をひと回りしたため、航海上不安のない船であると立証され、大きな宣伝となった。(集合写真1枚有)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p190)
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今日の新着(2)

新しい記事を「大正11年」に追加しました。

大正11年(1922)
○WWT終結後、各国が競って太平洋海運を強化。競争激化により東洋汽船は苦境に追い込まれた。T11.09.29株主総会で浅野社長陳述。「桑港線については、相手は当社の船より1日早く出帆、2〜3日も早く入港する。よって、客も荷物も船室および容積が半分にも満たない有様。相手の大型船は当方より3ノット速いので、太平洋を3〜4日速く渡れ、船も新しいから、今の日本の商船会社では太刀打ちできない。相手は米政府・船舶院の船であり、アメリカ国家と競争しているようなもの。政府の力で、2.5万〜3万総トンの船を、シアトル・タコマの方へ3隻、桑港の方へ3隻回していただきたいと思っている。」ただし「ホノルルに寄る当方は3等客は案外減らない。」
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p185)

大正11年(1922)
当社としても一生懸命であった。桑港線の各船は機関を調整して概してシー・スピードを16浬以上にしていた。左表が実際の航海速力である。
 大洋丸:3390・8.17.52・16.15/2090・5.8.53・16.21
 天洋丸:3394・8.23.18・15.76/2096・5.16.16・15.38
 春洋丸:3390・8.20.27・15.96/2092・5.3.39・16.92
 これや丸:3394・8.13.38・16.50/2093・5.6.12・16.58
 さいべりあ丸:3390・8.20.45・15.94/2102・5.8.10・16.40
 (数値:横浜ホノルル間距離・航走日時・1時間平均速力/ホノルル桑港間距離・航走日時・1時間平均速力)
(「東洋汽船六十四年の歩み」 中野秀雄 1964 p186)
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2015年07月30日

今日の新着 2015.07.30(1)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「大正10年」に追加しました。

大正10年(1921)
○太平洋横断旅客船の今昔7、香港桑港航路開設。同航路開設10年後の1908(明治41)年には天洋丸13402総トン、地洋丸13426総トンを、また1911(明治44)年には三菱長崎造船所で建造された春洋丸13377総トンを、1916(大正5)年には太平洋郵船会社より買収したコレア丸11810総トン、サイベリヤ丸11790総トンほか1隻を、さらに1921(大正10)年には独乙よりの賠償船大洋丸14458総トンを加え、大いに名声を博した。けれども北太平洋航路は決して日本船の独擅場ではなく、日本郵船会社も東洋汽船会社も共に、米国船、英国船に対して受太刀の状態であった。そこで日本郵船は政府に対し、快速優秀船の建造の急務なことについて長文の建議書を提出した。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p16 高久虔一)


大正10年(1921)
○大洋丸の委託運航。旧ドイツ客船であったカップ・フィニステル(CAP FINISTERRE)は第一次世界大戦の賠償船として日本が取得したが、本船を回航してきた日本郵船は本船は喫水が浅く、トップヘビーであることを理由に運航を辞退してしまった。これには逓信大臣野村卯太郎も困ってしまい、病院船にしようとか、あるいは横浜の桟橋に繋船して海上ホテルにしようとか案が出たが、結局は時の総理大臣高橋是清らが浅野に依頼し、東洋汽船が大蔵省より運航を委託されることとなり、1921(大正10)年3月、横浜で受け取り直ちに三菱長崎造船所にて約30万円をかけて修理、改造して大洋丸と改名した。本船はボートデッキに大きな石でできたプールを有し、食堂も天井がかなり高かった。このトップヘビーの一因となる部分を改修することとなりまず取り扱いが困難なアンチローリングタンクをサイドタンクに交換したり、船底のバラストを追加した。また積み付けには重量物を下艙に積みトップヘビーを防止するように配慮することとした。修理が完了した大洋丸は大正10年5月14日、香港に向けて長崎を出帆した。浅野は本船が世上噂される危険な船ではないことを世間に知らせるために自ら同船に乗って香港に行くことにした。船長はベテラン東郷正作であった。東郷は大正4年アーネスト・ベントに代わって天洋丸の船長となりサンフランシスコ航路では初の日本人船長となった人である。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p80-81)


大正10年(1921)
 浅野が本船について感慨深いこと、それはおそらくこの披露航海に安田銀行の頭取である安田善次郎が同行したことだろう。安田は単に浅野の、そして東洋汽船のパトロン的存在である以上に浅野とは懇意な間柄だった。コレア・クラス購入時の立替をしたり、セメント事業拡張には先に立って同意し、第一次世界大戦の好景気で大量建造した船の材料代価の社債を引き受けたのもみなこの安田であった。それだけに安田が大正10年9月28日に大磯の別荘で凶刃に倒れたことは東洋汽船のみならず大きな損失であった。安田銀行側から後に、東洋汽船の借金返済を迫られた浅野は「それやァ話がちがう。わしは故善次郎さんから二億円までは融通するとの遺言を受けている。いままで借りた金は一億円ばかりだからまだ半分は残っている筈だ」とうそぶいた。浅野の人となりがうかがえる。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p81)
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今日の新着 2015.07.30(2)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「大正12〜14年」に追加しました。

大正12年(1923)
○関東大震災時の救助活動と被害。1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災で横浜市内の諸官庁が焼け、通信機関が麻痺したため、横浜港に停泊している船舶の無線電信機を用いて災害地外へ電信を打った。これらの情報は対米通信用に設けられた磐城無線電信局へ送られ、局長が直ちに英訳してホノルルやサンフランシスコへ送信され、大震災のニュースが世界に伝わった。救助活動には大洋丸なども活躍し、「海運興国史」によればこの救助活動にあたった邦船は96隻ともいわれている。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p82)
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今日の新着 2015.07.30(3)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「大正15年」に追加しました。

大正15年(1926)
○客船隊、日本郵船へ移る。第一次世界大戦後の海運界は世界経済の不況を受けて不振を続けていた。日本郵船や大阪商船などは大型船を引き揚げて打撃を避けたが、多くの航路を持たない東洋汽船は老朽船に鞭打って対抗せざるを得なかった。新船を建造しようにも安田善次郎の突然の死で東洋汽船は資金源を断たれていた。安田の死後に保善社専務理事となった結城豊太郎は、安田銀行の近代化・組織化を最優先させ、海運業への新規融資どころか、滞貸の速やかな回収を計画した。このため東洋汽船では安田銀借入金の肩代わりを第一銀行に依頼する案さえ検討された(杉山和雄『海運業と金融』海事産業研究所編による)。政府は多年巨費を投じてきた桑港線を破棄するのは体面上忍びないとの見解で、海運界の反対論にもかかわらず当線の補助を決定した。ただ、東洋汽船の実情では路線の維持が困難とみられ、日本郵船との合併案に活路を見出した。郵船は、東洋汽船の陸上財産と貨物船を除き、桑港線・南米線の営業権と使用船8隻、委託船大洋丸とその使用権を譲り受けることになった。大正15年2月16日、浅野社長と郵船の白仁社長との間で合併準備契約書の調印が行われ、3月10日合併が終了した。ここに、明治31年竣工の日本丸により開始された東洋汽船の客船サービスは、28年目にしてピリオドを打った。
(「船舶史稿 海運会社船歴編1」 船舶部会「横浜」 1987 p83-4)

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今日の新着 2015.07.30(4)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「昭和7年」に追加しました。

昭和7年(1932)
○遠征の日を前に朗らかに多忙な女流選手たち、昨夜は洋食のたべ方練習の陽気な晩餐会
(「東京朝日新聞 16582」 1932.6.26日刊 p11)


昭和7年(1932)
○選手歓送第二回オリムピツク列車、横浜埠頭で大演奏会並に大合唱。オリンピック派遣選手の、各選手および体育協会本部役員ら104名は新興日本の堂々たる陣容を整えて、30日(木)午後3時横浜出帆の大洋丸で晴れの首途につきます。本社は遠征選手の健闘を激励し、その勝利を祈るため前回同様横浜臨港特別列車第二回オリムピツク列車を仕立て横浜港に栄ある選手の鹿島立ちを見送り、埠頭において府立第一商業生徒のバンドによる本社のオリンピック応援歌の大演奏及び来会者の大合唱を捧げて代表選手を歓送致します。左の規定により一般読者諸君の参加を希望致します。(往)午後零時10分東京駅発、同零時54分横浜港着(途中無停車)、(復)午後3時43分横浜港発、同4時27分東京駅着(品川駅停車)。参加申込は本社受付にて450名に限り往復特別乗車券(整理のため1枚30銭)を発行致します。主催東京朝日新聞社
(「東京朝日新聞 16582」 1932.6.26日刊 p11)


昭和7年(1932)
○オリムピツク第二陣愈々あす船出、各送別会をのぞく
(「東京朝日新聞 16585」 1932.6.29日刊 p7)


昭和7年(1932)
 集合写真。六月三十日横浜を解纜した大洋丸船上に於ける日本チーム(男子陸上競技及男子競泳を除く)。
(「第十回オリンピツク大寫眞帖」 帝国公民教育協会 1932 ノンブル不明)


昭和7年(1932)
○海洋丸便り、勝つまではお菓子廃止、女子選手の意気込み
(「東京朝日新聞 16595」 1932.7.9日刊 ノンブル不明)

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今日の新着 2015.07.30(5)

みなさん、こんばんは。
新しい記事を「昭和16年」に追加しました。

昭和16年(1941)
○開戦前夜の日本の北太平洋航路。日本は英国・米国に次ぐ世界第3位の船腹量を維持してきたが、1939年に起こった第二次世界大戦のため、世界に張り巡らされた日本の定期航路はこの年から翌年にかけ次々に閉鎖されていった。1930年代後半の北太平洋航路は、サンフランシスコ航路では浅間丸・秩父丸(1939年1月鎌倉丸と改名)・龍田丸・大洋丸と新鋭船を主体にそれぞれ2週に1便の定期を張り、華やかな客船黄金時代の真っ盛りであった。37年7月の本格的日中戦争の勃発から41年7月の南部仏領インドシナへの進駐にいたり、日本と英米の関係は決定的に悪化、ついに41年7〜8月にかけ北太平洋の架け橋が消えた。龍田丸・氷川丸・大洋丸はこのあと10月、引揚者輸送のため米国に行くが、これは定期航路ではない。また龍田丸が太平洋戦争開戦直前に米国に向け横浜を発った航海は、開戦を隠す偽装航海といわれた。このようにして太平洋戦争開戦の前夜には、北太平洋に活躍したほとんどの日本船は祖国に帰り、開戦準備に入っていた。
(「北太平洋定期客船史」 出版協同社 1994 p195-196 三浦昭男)


昭和16年(1941)
○太平洋横断旅客船の今昔18、引揚帰国者の輸送。第二次世界大戦勃発後も米国は中立を保ち、太平洋横断旅客船も平穏な航海を続けていた。しかし1941(昭和16)年7月ともなると、浅間丸がマニラから蘭領インド・バダビアに差し立てられ、当時抑留されていた独乙人婦女子および独乙外交官等6百余名を搭載、上海・長崎・神戸へ輸送したのをはじめとして、引揚帰国者の輸送が相次いだ。9月から11月にかけ、北米方面へは龍田丸・氷川丸・大洋丸が、内地引揚邦人輸送のために配船された。
(「旅客船 35」 日本定期船協会 1956.10.25 p21 高久虔一)


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2015年09月20日

今日の新着 2015.09.20

みなさん、こんにちは。
新しい記事を「昭和18〜20年(1943〜1945)」に追加しました。

昭和18年(1943)
○大洋丸を沈めた米潜水艦のその後。マレー半島西岸のペナンには第一南遣艦隊の第九根拠地隊があった。1943年4月20日午前10:30、ペナンに派遣されていた第九三六航空隊の艦攻1機が、プーケット島沖で浮上潜水艦1隻を発見。米潜水艦「グレナディア」であった。同艦は1941年に就役したタムボー級(1475基準トン/水上)の一艦。オーストラリアのフリマントルから出撃し、これが6回目のパトロールだった。4月20日夜、ペナン北西のレムボワラン海峡で2〜3隻の船団を発見した同艦は、これを追跡中に見失い、再度発見した船団を襲撃準備中に、日本機の攻撃を受けた。同艦は直ちに潜航したが、深度35m付近で対潜弾が命中炸裂、機関コントロールルームと後部発射管室の間に命中。船体後部とハッチは破壊されて浸水、動力を失ったが、浮上して低速航行が可能なよう修理した。4月21日午前03:20、船団2隻護送中の特設砲艦がグレナディアを発見したが見失った。翌朝09:05、第九三六航空隊の一機がグレナディアを再発見。九七艦攻の爆撃を受けた同艦は機銃で反撃したが、09:30特設捕獲網艦長江丸が駆けつけて砲撃を開始するに至り、艦長フィッツジェラルド少佐は艦の放棄を決意、白旗を揚げて降伏した。10:00船体が沈みはじめ、乗員は海上から救助され、士官8名、下士官兵30名が捕虜となった。戦後帰還したのは艦長以下6名と言われている。なお「グレナディア」の戦果は、1942年5月8日に日本郵船の大洋丸を沈めたのが唯一であった。
(「敵潜水艦攻撃」 朝日ソノラマ 1989 p63-65 木俣滋郎)
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2015年09月21日

今日の新着 2015.09.21

みなさん、こんにちは。
新しい記事を「昭和17年(1942)」に追加しました。

昭和17年(1942)
 明44.8建造。大8第一次大戦の賠償船として日本政府が取得。大10.1大洋丸と改名、東洋汽船に運航委託。大15.5N.Y.K.に運行委託。昭4.5.4N.Y.K.に払い下げ。昭17.5.8六連からルソン島リンガエンに向け航行中、長崎県男女群島の南南西85浬(30.45N、127.40E)で米潜グレナディアGrenadier(SS-210)の雷撃を受け沈没。
(「日本郵船船舶100年史」<世界の艦船・別冊> 海人社 1984 p223 木津重俊)

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2015年09月23日

今日の新着 2015.09.23

みなさん、こんにちは。
新しい記事を「昭和17年(1942)」「昭和18〜20年(1943〜1945)」に1本ずつ追加しました。

昭和17年(1942)
○5月8日は大詔奉戴日で、船では早い夕食の膳におかしら付きで酒が1本ずつ出された。ちょうど食事が終わったとき、サロンのブザーが不気味な音をたて、「敵襲」と叫ぶ声がスピーカーから飛び出した。私は遠くでドーン、ドーンという、腹にこたえるような2発の爆発音を聞いた。咄嗟に敵潜水艦が出たなと思った。急いで船室に戻り、救命胴衣を着けて上甲板にかけあがってみると、九州の山々と五島列島の島影が5月の夕映えの空をバックにはっきりと見え、はるか水平線上に赤々と燃えて炎を吹きあげている大洋丸の姿を見た。デッキの手すりにつかまって船尾を見た。約100mの距離で難を免れたのであった。大洋丸は停船しているらしく、天をこがす炎が次第に近く見えてきた。18000トンの巨船には、シンガポールに向かう3000人ほどの軍関係者が乗っている。軍需物資も積んでいるはずである。吉野丸はジグザグコースで南に向かっていた。大洋丸の燃える火柱が、爆発音とともに一段と大きくなるのを見た。夜の闇が迫り、五島列島沖の暗い海面にただ一つポツリと光る大洋丸の燃える姿が、船尾の遠くにいつまでも見えていた。家に残してきた妻や母や子供は、もし明朝の新聞に「大洋丸沈没」のニュースが出たら、仏壇に燈明をつけて私の写真を飾ると思った。数日後に台湾の高雄に着くと、上陸する人に頼んで、無事航海をつづけていると家族にハガキで知らせた。大洋丸のことは検閲を考え、1行も書かなかった。そして、日本の領海内に敵の潜水艦が現れ襲撃されるようになったこれからの厳しい戦局を思わずにはいられなかった。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p不明 藤波健彰)


昭和18年(1943)
○昭和18年の暮れ近く、撮影済みのフィルムを持って、私は内地に帰った。南方ボケの私の頭と皮膚は、内地のきびしい冬の寒さに悲鳴をあげた。2年ぶりの対面で、家内が口にした最初のことばは、内地出発直後、五島列島沖で起こった大洋丸撃沈事件のことであった。家内は私が大洋丸に私が乗り込んでいるものと思い込んでいたので、「詳報がくるまで仏壇にあなたの写真を飾り、毎日朝夕お経をあげていましたよ。顔を見るまでは本当に後家さんになったのじゃないかと思っていました」といった。戦時下の家庭に、こんな話はどこにでもあったことだろう。
(「ニュースカメラマン」 中央公論社 1980 p252 藤波健彰)


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2015年09月27日

今日の新着 2015.09.27

みなさん、おはようございます。
新しい記事を「昭和16年(1941)」に4本追加しました。

昭和16年(1941)
○昭和16年7月、当時第三艦隊参謀であった私は、東京転任を命じられた。開戦近い切迫した時期の陸上(人事局)勤務は不満だったが、9月下旬に軍令部第一部の立花少佐に呼ばれ、ハワイ軍港のスパイを命じられた。すでに日米両国は通商閉鎖状態で船の往来がなかったが、日本郵船の大洋丸が在日米国人の帰国のためハワイに向かう予定で、私はこの船に郵船本社の派遣事務員に化けて乗り込むことになった。また潜水艦の専門家である前島中佐が船医に化けて乗った。私たちの身分を知っていたのは、船長、事務長に船医、その他二三名の高級船員だけだった。船は10月20日午後横浜を出港。米本国に帰る数百名のアメリカ人たちが家族と共に乗っていた。進路を北にとって択捉島近くまで北上、それから東に向かったが、これは船長に対して海軍側から要請された航路で、後で思えばハワイ空襲部隊の航路にあたる。風向、気圧、船の動揺、給油予定地点を調べた。船が東進しアリューシャン群島とミッドウェー島とを結ぶ線の中間を過ぎ、東経165度あたりから南に下ってハワイ島を目指す頃になると、海は凪いできた。当時は米ソの輸送船がこの航路の近くを通っていると思われていたのに、航行中に一隻の船にも遭遇しないことは私を喜ばせた。これなら我が機動部隊は隠密のうちにハワイに肉薄できる。10月末の北洋は寒かった。今度の航海はやけに北を通るものだと船員たちも不思議そうに語っていた。曇天ながら14mの風が吹き、15000トンの大洋丸が10度も傾くほどだった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p24-25 鈴木英)


昭和16年(1941)
○11月1日未明、大洋丸はオアフ島の北方、約200マイルで米軍の哨戒機につかまった。哨戒機は頭上を旋回して南に去った。船が100マイル地点まで近接すると、米軍機が編隊を組んで近づき、大洋丸を目標に急降下し擬襲をおこなった。私は船橋から米軍の演習ぶりを眺め、なかなか上手だぞと思った。米軍の防禦戦法を「200マイルが哨戒線、100マイルで攻撃か」と判定しながら、私は敵の演習ぶりを視察し続けた。日本海軍の航空専門家が乗っているとも知らず、手の内を見せてくれるわい。それにしても一体日米は戦うであろうか。警戒は想像以上に厳重で、ホノルル港外で士官以下10名の米海兵が乗り込んできた。彼らのうち誰一人神経を尖らせている者はいなかった。ホノルルの港内を目指し微速で進んでいる大洋丸を、古い型の日本商船と軽視したのだろう。飛行機の哨戒ぶり・それに伴う編隊の擬襲・先ほど見た防潜網は、非常に厳しい警戒を始めていることを示すが、話しぶりではまだ一般の兵士にまでは及んでいないようだと思った。米側は大洋丸を桟橋の一番外側、つまり真珠湾に一番近いところに接岸させた。何という幸運、真珠湾が丸見えだ。船橋に立てば真珠湾を出入りする米艦艇が手に取るように見え、ロージャース、ヒッカム両飛行場、フォード島も指呼の間だった。大洋丸が古い大型船でデッキが高いのも、万事に都合がよかった。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p25-26 鈴木英)


昭和16年(1941)
○こんなよい桟橋に大洋丸をつけたのは無気味であった。大洋丸の真横にイギリス駆逐艦が碇をおろしており、これで我々を監視するのかと前島中佐と私は語り合った。陸へ上がった船員には尾行がつくということで陸上での連絡は不可能に思え、一切の情報収集は船内でやることにした。船長室と弦門に直通電話を引いて高級船員に弦門を監視させるなど、盗聴防止にも十分注意した。これだけの準備をしてからホノルル領事館北(ママ)総領事に私の身分を打ち明けた。領事館からは在留日本人の引揚げ乗船の手続きで、頻繁に大洋丸に連絡が来る。その都度、領事館員を船長室に招いて、私は真珠湾軍港の情報を聞いた。話を聞いては船橋に行き、直接に目で確かめる。2日になって、日本潜水艦が真珠湾口に現れたと新聞に報道された。警戒が厳しくなりかねないので、ここで一切書き物を残さない方針を決めた。ところが領事館員は軍事専門家ではないので、すべてを記憶するというわけにはいかない。領事館から船に毎朝新聞が届いたが、この中にメモが挟んであった。米国税関の検査は、当方が積極的に新聞の端をパラパラと見せるとすぐOKになった。紙片に書かれた米艦艇の入港日時・隻数などは片端から記憶し、紙片は焼き捨てた。日本海軍が張っていた情報網からも領事館に情報が集まっていた。10月21日(大洋丸入港10日前)撮影の真珠湾の空中写真も届いた。末端のスパイと一切接触はせず、船の上で情報を総合することに努めた。大洋丸の甲板を歩きながら、私は丸見えの真珠湾を見直した。戦艦8・空母3・甲巡11など、私の推算は正確で、戦後に米国側で大きな問題になったほどだった。私は大洋丸の船上でこの数字を出すと、何度も何度も検討を繰り返した。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p26-27 鈴木英)


昭和16年(1941)
○ホノルル出港は4日午後の予定だったが、私は船長に明日5日の真珠湾が見たいと頼んだ。船長は理由を聞かず引き受けてくれた。積み荷作業が意識的に遅らされたが、荷役が1日くらい遅れて出航が延びるのは商船では珍しいことでもないらしく、米国側もそれほど注意を払わなかった。5日(日)早朝、私はとび起きると船橋から真珠湾を眺めた。わざわざ出港を延期させて日曜朝の真珠湾を見た理由は、真珠湾奇襲は「やるなら日曜」とすでに計画があったからだ。週末で泊地に帰投した軍艦はフォード島の周辺に思い思いに碇をおろし、軍港は全く静かな休養の朝を迎えていた。これでよし、彼らは日曜は確実に休んでいる。大洋丸は5日夕刻、ホノルルの桟橋を離れた。次第に船足を速めて、オアフ島の姿が遠くなるにつれ、私は大声を上げて喜びたい衝動をどうすることも出来なかった。公海上での米軍艦臨検を警戒して、私は重要なメモを残さなかった。書類のまま持ち帰るものはコヨリによって紐として使い、それも燃やしやすい場所に置いて万が一に備える慎重さだった。帰路は往路より南を走ったが、これも後に機動部隊の帰路となった航路である。大洋丸にはハワイを捨てて故国に帰る日本人一世二世が多数乗っていた。彼らの中には飛行場の格納庫建築に働いた者が多く、この人々から格納庫の屋根の構造なども詳細に聞くことができた。心配した米軍艦の臨検もなく無事11月17日に横浜に帰着、着慣れた事務員服を軍服に着替え、直ちに大本営に報告した。12月8日未明、淵田中佐の発した「奇襲成功」の無電、引き続いて続々と東京に報告されてきた真珠湾軍港壊滅の勝報を、私は海軍省で素知らぬ顔で聞いていた。
(「日本 4.11」 講談社 1961 p27-28 鈴木英)


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2015年10月10日

今日の新着 2015.10.10

みなさん、こんばんは。
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昭和16年(1941)
 十月末ごろ、大洋丸船上の軍事オブザーバー二名が精密な気象データを集めた。同船は、ミッドウェーとアリューシャン列島のあいだを東進し、ついで南に向きを変えるという攻撃部隊とまったく同一航路を通って、ホノルルに入港したのである。二人のオブザーバーは、ホノルルに到着後、新たに港内の航空写真を撮り、役に立つ二、三の資料も入手した。たとえば、米艦隊はラハイナには集結しておらず、週末はあいかわらず休暇とレクリエーションで過ごすといったスパイ情報を確認している。
(「パールハーバー」 読売新聞社 1987 p352 Wohlstetter,Roberta)


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2015年10月11日

今日の新着 2015.10.11

みなさん、おはようございます。
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昭和17年(1942)
○要目、徴傭事項、遭難概況、大洋丸遭難者に対する給与の件、遭難顛末書、大洋丸遭難船員の件、大洋丸の件、大洋丸行方不明者戦死確認軍内報許可の件、大洋丸遭難行方不明者戦死確認名簿、大洋丸乗組死体検案書送附の件、大洋丸乗組員戦死者戸籍面抹消に関する件、大洋丸乗組員名簿
(「日本郵船戦時船史資料集」下 日本郵船 1971 p288-298)


posted by 梨木歩登志・深井人詩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 新着案内 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする